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「ジュード、今日からお前はジュードだ」
そう言ってコークが差し伸べた手は僕よりおおきくて、その時どこへでも行ける気がしていた。茜射す部屋で音楽が流れていた。ジュード、と呼びかけ歌う歌が。
「ジュード、聞いてるのか」
呼びかけられて我に返る。困った顔のツルギが見つめていた。片手でしなやかにペンを回しながら。
「…サナトリウムに入れってこと?」
「入れ、とは言ってない。入ったらどうかってことさ。エカイユじゃ満足いく治療も受けられないし、ひどくなる一方だろ、その…」
発作、と僕が言うと、ツルギはうなずいた。ペンは螺旋を描いてはツルギの手に収まる。器用なものだな、と思う。挟んだ机の上の書類の束が窓からの風を浴びてぱたぱたとはためいている。
三区の海辺にあるというサナトリウムは古くからある施設で評判もいいらしい。そこに入れば僕の精神も健全なものに変わるだろうというのがツルギの意見だった。
「まあ、コークには死ぬほど反対されたけどな。昨日もすごかったんだから。あいつはジュードがいないとだめらしい」
苦笑いしてツルギは頭を搔く。昨日の言い争う声はそれだったのか、と納得する。
「…考えとく」
立ち上がり、背中を向けた僕にツルギが続ける。
「言っとくが、これはジュードのためなんだ。ここから追い出そうとしてる、とかそういうわけじゃない」
「わかってる」
部屋のドアを閉めて、ほっと息をつく。
たしかに僕の発作は年々ひどくなっていた。それがどの程度ひどいかなんて自分ではわからないけれど、少なくともコークやツルギ以外のみんなに距離を置かれるくらいの状態にはなっていた。ツルギがサナトリウムを勧めるのも、それと関係あるんだろうなと思う。追い出すわけではないとは言われたが、僕の存在はエカイユの中で異質なものになっているのは事実だった。
エカイユは少年たちの庭とも呼ばれている。孤児院と少年院が合わさったような施設で十代から二十代の素行不良で身寄りのない少年、青年たちが集団生活している。僕は十歳のときにここへ来て、それからずっとここで暮らしている。
寮の部屋に戻ると、コークが寝転びながら雑誌を読んでいた。激しい音楽が大音量で流れている。
コークは僕に気がつくと、顔をしかめてどうだった、と声を出さずに言った。あるいは音楽で聞こえなかっただけかもしれない。
「ツルギは俺にサナトリウムに入ってほしいみたいだ」
少し大きめの声で僕が答えると、コークはラジカセを止めて小さく舌打ちをした。
「お前は俺から離れられないさ、離れたらどうなるか…目に見えてわかるだろ」
コークはそう言いながら僕を見つめた。赤茶色の大きくつり上がった猫のような瞳。僕は黙ってうなずく。
擦り切れてあまり意味をなさなくなった、かつて白かったのだろう薄汚れたカーテンが揺れる。古びたミュージシャンのポスターにまみれた壁と天井が僕らを見ている。
コークは何かあるたびにお前は俺から離れられないと言う。そうなのかもしれないと思う。コークが僕を見つけたあの日から、僕を生かしてきたのは紛れもなくコークだろうから。
真っ赤に染まった部屋。それは夕日、あるいは、
鉄の味がする口の中で、ちいさく母さん、と呼んだ。母さんは動かなかった。腕は僕を抱いてだらりとのびている。長い髪が床に広がっていた。肉の腐った匂いがあたりに充満している。
鉛のように動かない身体。途切れ途切れの意識の中で、夢を見ていた。母さんとふたり海に行った日のこと。アイスクリームを買ってもらったっけ。僕の手を繋ぐ母さんの手は痣だらけで、僕の手もまた痣だらけだった。アイスクリームを口にしながら、母さんを見上げる。けれどその顔は影になり、どんな顔をしているのかわからなかった。でもどうしてだろう、母さんは泣いている気がした。
「おい!」
誰かが僕に呼びかける声がする。
かすんだ視界に赤い髪が映って、繰り返し僕に呼びかけるその人が僕に触れたとき、ぷつりと意識が途切れた。
「はい、五歳くらいの――でも栄養状態が極めて悪いのでもっと上かもしれません」
次に目が覚めたとき、病室のベッドの上だった。白い天井にひかりが揺れている。繋がれた点滴がぽたりぽたりと落ちる。仕切られたカーテンの向こうで誰かが話すのをぼんやりと聞いた。
「おお!目覚めたか」
カーテンを開けて顔を出したのは栗色の癖毛に無精髭の若い男と、あのとき僕を呼んでいたのはこの人だろう、僕よりすこし年上の赤い髪の少年だった。
「気分はどうだい?」
問いかけながら男のほうが僕の髪を撫でる。こんなふうに頭を撫でられたのはひさしぶりだった。僕は目を細める。
少年のほうはというと、何か考えるように口を一文字に結んで黙って僕を見つめていた。
男はツルギ、少年のほうはコークというのだと男が言った。
「本当に生きててよかった」
ツルギが僕を見つめながら、真剣な顔で言う。
その言葉を聞いて、息が詰まる。
生きてても、僕はもう母さんに会えない。
その現実がたしかな重さを持って胸を締め付ける。途端にぼろぼろと涙がこぼれて、とまらなくなる。しゃくりあげながら泣く僕の頭をツルギはやさしく撫で、それが余計にかなしかった。
「なあ、お前名前は?」
黙って見ていたコークが突然僕に問いかける。名前、僕の名前、口に出そうとするが出てこない。母さんが呼んでくれたあの名前は――
「もしかして思い出せないのか?」
黙ってうつむいている僕にコークが言う。僕はうなずく。母さんがいなくなった今、名前なんてもう意味がないと思えたからだ。
「じゃあ、付けてやる。俺がお前の名前を付けてやる」
痩せてちいさく骨の浮きでた僕の手とは対象的な、ふっくらとした大きな手が僕の手を包む。その目は真剣で、ふざけているのではないとわかった。
「コーク…お前なあ」
困惑するツルギを横目に、コークははっきりとした口調で僕に言った。
「これからは俺がお前を守ってやる」
僕のほうをまっすぐに見て、強く手を握り、そう言うコークはなんだかとてもかっこよく見えた。ひとりぼっちになってしまった僕にその言葉はとても心強く響いた。
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