第22話 昔、昔(1)

 その日は朝から雨が降り続いていた。豪雨ではないが、かと言って傘を差さずに出歩くことは難しい、しっかりとした雨である。そんな雨が降り続いている影響か、元々それほど客がやって来ることのないシツツメ商店の客足は本日に至っては、昼過ぎまでゼロだった。シツツメにとってもこの雨ではやる気も起きないのか、店のカウンターの奥に置いてある椅子に腰かけ、文庫本を読んでいた。

 ぱらりとページを捲り、気怠そうに欠伸をしたところで店の入口の戸が開く音が聞こえた。シツツメは文庫本から視線をそちらに向けると、良く見知った顔が見えた。


「よう。何だよ、せっかく来たってのに眠たそうな顔して。体の調子はもう戻ったんだろ?」

「まあな。万全とは言えないが、問題は無いってとこだな。……お前、今から出勤か?」

「仕事が終わったところだよ。夜勤明けに会議に参加しろって呼び出し食らって、それでこの時間までだ。頭が回らないから、眠いのか眠くないのかすら分かんねえ」


 そんな会話を交わしながら傘を畳んで、店内へと入って来たのはスーツ姿の藤村だった。その言葉が示す通り、藤村の顔には疲労の色が出ている。肉体的なものもあるだろうが、精神的な疲れが半分は占めているだろう。藤村は上着のポケットから百円玉を取り出すと、親指の指先で器用に弾き、開かれている文庫本の上まで飛ばした。


「缶コーヒーくれ。味は何でもいい」

「さっさと家に帰って寝た方が良いぞ、役所勤め」


 シツツメは藤村から渡された百円玉をそのままに文庫本を閉じ、近くに置いてあった無糖の缶コーヒーを手に取り、藤村に投げ渡す。それを受け取った藤村は蓋を開けて、中のコーヒーを一口飲めば、「はあ……」と息を吐いた。缶コーヒーを手にカウンターの前まで来れば、右肘をカウンターの上に置き、そこに体を預ける。まるで立ち飲み屋にやって来たような風情だ。


「明日が休みで助かったぜ。ここ最近、仕事量がやたらと増えてな……対応に追われているんだよ」

「凛音の件で、だろ。良くも悪くも影響力があるみたいだからな、あいつは」

「本人から言われているとは、言えさらりと下の名前で呼ぶとはな。……まあ、それは大きいな。雨宮凛音に関することもそうだが、ダンジョンへ入りたいって問い合わせがとにかく増えているんだ。だけどこれに関しては、四季。お前の影響も大きい」

「おいおい、俺はただの一般人──」


 とシツツメが言いかけたところで、思い当たる節があったのか口を閉ざした。自分からではないとは言え、凛音の配信に出てしまったのだ。大多数の目に触れてしまったということになる。


「もしものことがあっても、お前が助けに来てくれるって考えている人間が増えているんだ。普通だったら、いくら適応者ハイブリッドとは言え、それは高望みしすぎだろうさ。だけど、四季の能力だったら──それが可能になるんだからな」

「それこそ高望みしすぎだ。誰でも助けられる万能無敵の能力なんてある訳ないだろ。それに単純な殺傷力として見たら、凛音の能力の方が上だ」

「まあ、そりゃそうかも知れないけどな……」


 シツツメは凛音の能力を目の前で見た上で、そう判断をしていた。だがシツツメの適応者ハイブリッドとしての能力はダンジョン攻略という観点で見れば、これ以上無い──それこそ理想に近い能力とも言える。

 だからこそだ。


「だけどこの夜桜市のダンジョンの最下層まで辿り着いたのは、四季しかいない訳だしな。……高校生の時か、随分と昔のことみたいに思えるな。そう言えば四季がダンジョンから戻って来た時も、こんな風にしっかりと雨が降っている日だったな」


 と藤村は懐かしむようにそう口にしながら、相も変わらず雨が降り続いている外の風景に目をやった。対してシツツメは、「もう昔の話だろ」と短く呟いただけで、それ以上話を広げようとはしなかった。明らかに避けていることが分かる。

 シツツメと藤村もこの夜桜市の出身で、昔からの友人同士である。だが藤村はダンジョン攻略に必要不可欠な適応者ハイブリッドとしての能力は持っておらず、シツツメとはダンジョン内で行動を共にしたことはない。もし自分にもそれがあれば、あの時にシツツメと一緒に行っていただろうと、藤村は思う。


「……ボロボロになった四季を大勢の人間が出迎えたけど、四季は結局、最下層で何を見たのかは言わなかったよな。挙句には本当は最下層に行ってないだの、レアアイテムを一人占めにして金儲けしているだの、あることないこと言われたっけ」

「あったな、そんなこと。本当に金儲けしていたら、こんなボロ商店やってないだろ」

「はは、確かに。……なあ四季、今だから改めて聞くけど、お前あのダンジョンの一番奥で何を見たんだ? 四季が本当は最下層まで行っていない、なんて思っちゃいないけど、それについて何を聞かれてもずっと答えを言わないのが、どうしても気になって」

「何だ、興味津々な年頃か? 別に最下層まで行っていないと思ってくれてもいいさ。ただ──」


 四季は文庫本を閉じたり開いたりしながら、言葉を続けようとした。そこで一度口を閉ざす。何かを思い出しているのか、シツツメの目には本人しか知り得ない複雑な感情が浮かんでいた。

 それを振り払うようにシツツメは瞬きをすると、小さく笑った。


「言ったらつまらないだろ。今のところ、それを知っているのは俺だけだ。まだしばらくは秘密にさせてもらうぜ」

「おーおー、こりゃ優越感に浸ってるやつだな。……ま、そういうことにしとくか」


 藤村は缶コーヒーを手にしたままカウンターから離れると、「邪魔したな。帰って寝るわ」とシツツメに言い、入口まで向かった。シツツメは戸を開ける藤村の背中を見ながら、気を遣わせたな、と言葉には出さず、そう思った。あれ以上踏み込まなかったのがその証拠だ。

 傘を差して店の外へと、藤村は出ていく。戸が閉められた店内は再びシツツメ一人だけとなり、聞こえてくる雨の音が先ほどよりも大きくなったような気がした。


「それを知っているのは俺だけ……ね」


 シツツメはぽつりと呟く。そう、藤村が言った通り、シツツメがダンジョンの最下層まで向かうとダンジョン攻略に向かい、ついに戻って来た日もこんな風に雨が降り続いていた。

 だからシツツメは雨が好きではない。

 その日のことを思い出してしまうから。

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