第16話 ある日の昼下がり
雨宮凛音が転校してきたという一大イベントがあった四月を終え、五月に入ればすぐにゴールデンウィークが待っていた。連休に入る前日、夜桜高校は午前中で授業を終えていた。明日からの連休を心待ちにしている生徒たちは大勢おり、それぞれ予定を立てているのだろう。伊月も勿論、友人たちとの予定を入れているが、学校が午前で終わったこの日は誰とも合わせておらず、フリーの時間を作っていた。
授業を終えた昼下がりの時間帯、下校途中の足で伊月が立ち寄ったのは、シツツメ商店だ。ここに来る前にあらかじめ、シツツメに店が開いているかどうかを確認していたため、シャッターが閉められているということはなかった。
「シツツメさーん」
店内に入った伊月はシツツメの姿を探すが、どこにも見当たらない。名前を呼んでみても反応は無かった。まさか店を開けているのにどこかに出かけているのかな、と伊月が考えていると、店の奥のドアが開き、そこからシツツメが現れた。どうやら奥のフロアにいたようだ。
「ああ、伊月か。悪いなちょっと用事があって、店を開けたのもついさっきなんだ。それで着替える暇も無くてな」
と店内にいなかった理由をシツツメが説明するも、伊月の耳には殆ど入っていない。伊月の目は食い入るように、初めて見るシツツメのスーツ姿に注がれていた。店内にいる時はいつもラフで、動きやすい服装しかしていないシツツメだが、用事を済ませる上でその服装ではダメだったのだろう。しかし自分の店に戻ってきたからか、そのスーツ姿も緩く着崩されているが、それがシツツメの雰囲気にマッチしていた。身長もあり、しなやかな体つきをしているシツツメにスーツ姿は似合っているのだが、本人は堅苦しいこの格好をあまり気に入ってはいないようだった。
「しかし、スーツなんて久しぶりに着たな。どうにも慣れない。着替えて来るから、ちょっと待って──」
「そのままでいいから」
シツツメは着替えに戻ろうとしたが、伊月はそれを止めた。足を止めたシツツメは後ろの伊月を振り返ると、「いやいや」と苦笑いを浮かべる。
「あまり好きじゃないんだ、スーツ姿は。動きにくいしな」
「そうじゃなくて……その、面倒でしょ? シツツメさんも、わざわざ着替えるの。せっかく久しぶりのスーツだったら、今日はそのままでいたら?」
「面倒って……このままの格好でいる方が面倒なんだが。というか、着替えに時間なんて大してかからないしな」
「ううん、ダメ。シツツメさんはその格好でいなきゃダメ。ほら、良い天気なんだし」
着替えたいシツツメを、伊月がそのスーツ姿のままで良いと引き止める。その伊月の言葉には、有無を言わせない何かを感じる。シツツメもそれに気づいたようで「天気関係あるか……?」と呟きながらも、着替えに奥の部屋に戻るのを止めたようだ。歩み寄ってくるシツツメに伊月はスマホを取り出し、カメラを向けた。その目は真剣そのものだ。
「伊月、何してんだ?」
「気にしないで。──あ、ポケットに手は入れたままでいいよ、シツツメさん」
いきなりスマホのカメラで写真を撮られた(五枚ほど撮られた)シツツメは、訳が分からないと言った様子で首を傾げる。伊月は撮った画像を確認してから、スマホをスカートのポケットに戻す。表情は非常に満足していた。
「おい用事ってまさか、これか?」
「あ、これは完全に別件っていうか……ほら、私シツツメさんに貸しひとつあったでしょ? 憶えてる?」
「貸し? ……ああ、あの時のか」
シツツメはすぐに思い出したようだ。凛音が初めてシツツメ商店にやってきた時、凛音の頼みをシツツメが断り、あまり良くない雰囲気になった際に伊月が助け舟を出したのだ。伊月はどうやらその貸しを使いに来たらしく、シツツメに小さく笑って見せる。
「いつもじゃまず見られない、スーツを着たシツツメさんがいることだし──ちょっと、私に付き合ってもらおうかなって」
「何だ? デートでもすればいいのか?」
とシツツメが何の気も無しに、確認するようにそう言った。伊月はそれを聞いて「デートっていうか……そんな大したもんじゃないけど」とウルフカットの毛先を指先で弄りつつ、こくりと頷く。シツツメをちらりと見上げるその視線は少し恥ずかし気だが、伊月からすれば貸しひとつということで、シツツメを誘える絶好の機会なのだろう。シツツメは頭を掻き「ま、貸しがあるからな」と納得したのか、そう口にした。
「飯ぐらいは奢ってやるよ。俺もまだ食っていないからな」
「別に奢りとか、そういうのを期待した訳じゃないからね、シツツメさん」
「遠慮するな、学生」
と二人は話しながら、店の外へと出た。伊月が言った通り、今日は快晴だ。
◇
シツツメと伊月が歩いているのは、夜桜市の中央を流れる川の両岸にある歩道だ。その歩道の隣には緩やかな傾斜の堤防が整備されており、緑地にもなっている。今はもう散ってしまっているが歩道には桜の木なども植えられており、花見シーズンには非常に多くの花見客が夜桜提と呼ばれているこの場所に集まる。そうでなくとも夜桜市民の憩いの場所にもなっているようで散歩、ジョギング、犬の散歩、デートなど、この夜桜提から見える景色を眺める人間は多い。
「それにしてもシツツメさんが雨宮さんの配信に出て、しかも炎上するなんて思わなかったな」
「それについては俺も同意見だ。あんな一言で騒ぎすぎだろう」
横に並び歩く伊月の言葉でシツツメはその時のことを思い出したのか、顔をしかめる。シツツメからすればあそこまで騒がれるとは想像もしていなかったはずだ。
だが炎上する時は大抵そういうもので、本人はまさかあんなことで──と、思うはずだ。シツツメの場合はSNSで擁護の意見も見受けられたのと、凛音がすぐさま謝罪配信をしてくれたことがすぐに炎上が沈静化した要因となった。もしそれらがなければ、伊月が危惧していた通りになっていたかも知れない。
「まあ、その後には特に何も起きなくて良かったけど。でもシツツメさんにとっては、あれが配信デビューになったね」
「配信デビューってほどでもないだろう。現にあれからは、一度も配信だの何だのに関わっていないぞ。ただ、その影響って言ったら良いのか? 俺に連絡を寄こして来たり、何なら店まで押しかけて来る人間がいてな……」
そう、凛音の配信に出たことでシツツメは多少、有名になってしまっていた。ダンジョン配信にゲスト出演して欲しいと頼んでくる配信者や、未だ攻略されていない夜桜市のダンジョンの奥深くにあるはずの未発見の資源などを狙う企業から、多額の報酬を提示されそれを見つけてくれないかと仕事の依頼をされるようになっていた。だがシツツメはそれらを全て断っている。あくまでもシツツメが夜桜市のダンジョンに行くのは誰かを助けるためであり、そこに報酬のやり取りは存在していない。
それを何か依頼をされる度に説明しているので、シツツメとしてはうんざりしているようだ。
「やれやれだよ。そういうのが面倒だから、個人で動いてるんだがな」
「大変だね、シツツメさんも。……あ、シツツメさんが今日、スーツ姿なのもそれが関係しているの?」
「いや、これは違う。夜桜市の方から人命救助に対する感謝状を受け取って欲しいと、この前連絡が来てな。俺は断ったんだが藤村の奴が「頼む、上の連中の顔を立ててくれ」と言って、仕方無くだ。あの様子じゃ俺が一度断った時に、相当どやされたな」
「藤村さん──あ、シツツメさんの昔からの親友だよね。それじゃあ今日の午前中は、役所まで行って来たんだ?」
「まあな。偉そうな連中から「是非正式な立場で働いてもらいたい」と言われたけど、面倒だって言って帰って来たよ。大方、どこぞの企業や組合から頼まれたんじゃないか? 俺がそういう枠組みの中に入れば、そこでしか動けなくなる。人命よりも、利益優先でいきたいってことだろ」
「じゃあシツツメさんは、今まで通りなんだね」
伊月はそれを聞いてやり切れない思いを抱くと同時に、シツツメがそういった話を断っていたことにほっとしていた。そしてかつて自分と琉衣が、夜桜市のダンジョンに無謀にも挑戦し、命を落としかけていたところをシツツメに助けられたのを思い出す。それが数年前の出来事だ。
あの時の自分はずっと何かに苛立っていたなと、伊月は思い返す。それに琉衣を付き合わせてしまったのは、今でも若干の負い目を感じている。琉衣は「二人共助かったんだし、気にすんなよ」と笑ってくれたが。
そこから伊月はよくシツツメ商店に顔を出すようになった。地元の夜桜高校への進学を選んだのも、シツツメに会いに行きやすいからというのがある。勿論それだけではなく制服のデザインや、昔からの友人たちも進学することや、単純に通学が楽──等々、理由はあるが。
伊月は気づけば、今の気持ちをシツツメに寄せるようになっていた。命を救われたその瞬間からか、シツツメ商店に通いだすようになってからか。隣をゆったりとした足取りで歩くシツツメをちらりと横目に見て、伊月は思った。
(まあ、そもそも……シツツメさんが私のタイプなんだけど。それにしても、スーツ姿カッコいいな──毎日この格好でいてくれないかな……)
伊月のシツツメに対する感情は、周りからはとっくにバレている。シツツメがそれを知っているのか、いないかはクラスの中でも意見が半々に分かれていた。
だがそんな伊月も、内心穏やかではないことがある。凛音のことだ。
伊月の目から見ても文句のつけようが無い、まさに美少女という凛音はシツツメにぐいぐいといっている。それは人気ナンバーワンのダンジョン配信者である凛音が、夜桜市のダンジョンを攻略するためにシツツメの協力が必要だと考え、そのアプローチをしているのだろうが、伊月にとっては気が気でない。いつシツツメが凛音のモノになってしまうか──だが、シツツメの反応を見ていればそんなことにはならないと思うも、凛音はシツツメを諦めていないのが分かる。
(雨宮さんのことだから、もっと大胆な手段に出る可能性もあるし……もしそうなったら、私は……私も……?)
そうなった場合のことを思い浮かべ、伊月は自分の体が熱くなったのを感じた。そこでシツツメに「歩き疲れたか?」と声をかけられ、伊月ははっと我に返る。
「ごめん、シツツメさん。ちょっと考え事してて」
「悩み多き年頃だからか? ……そういえば、今日は雨宮はどうしていた?」
「え? 雨宮さんは今日は用事があるって、すぐに帰ったけど……多分、配信関係なんじゃないのかな」
丁度、考えていた人物を話題に出されて 伊月はどきっとしてしまう。雨宮さんのことが気になるのかなと、シツツメを注意深く観察する。
「そうか。まあ、俺の勘違いならその方が良いんだが……どうにも、生き急いでいる気がしてな、雨宮の奴。俺が気にかけることでもないとは思うんだが、一応伊月には言っておこうと思ってな」
「雨宮さんが? ん、まあ私もちょっと気にするようにはしてみる」
伊月からすれば思いもよらないシツツメの言葉だ。シツツメなりに、何か凛音から感じる所があったのかも知れない。隣の席ということで一番凛音と接する時間の多い伊月は、シツツメの杞憂だろうと考えながらも、こくりと頷いた。
「──さて、散歩もこのぐらいにして、飯でも食いに行くか。せっかくスーツなんて言う面倒な格好をしているんだ、ホテルにでも行ってみるか」
「うん、私は大丈夫……え、ホテル……? ホテルに!?」
シツツメからの突然の提案に、伊月は声を上げてしまう。思わずホテルという言葉を復唱してしまっていた。伊月はどんどん早くなっていく心臓の鼓動を感じながら、少しでも自分を落ち着かせようと、髪の毛の毛先を指先で弄る。
「シツツメさんも、その、忙しいから……そういう時間が無かったんだね。相手いそうだけど、いないんだ……ふーん……私で良ければ……あの、えっと……」
「伊月、お前何言って──あ、いや、すまない。俺の言葉が足りなかった。夜桜シティホテルのレストランでもどうだ? って言えば良かったな。誤解させたか。言っておくけど、セクハラじゃないからな。そこ頼むぞ」
伊月のうろたえながらも、どこかまんざらではない奇妙な様子を見てシツツメは自分の言葉選びが間違っていたことに気づき、訂正をした。伊月は毛先を弄っていた指の動きをぴたりと止めると、「ちゃんとしてよ、シツツメさん」と呟いた。平静を装っているものの、
伊月はシツツメから恥ずかしさで顔を逸らしてしまう。
(浮かれすぎだ、私……シツツメさんに引かれたよね。……ああでもある意味、本当のワンチャンを逃したのかも)
(伊月の奴、不機嫌になったか……? あんな言い方をしてしまったからな、デザートもつければ機嫌直してくれるか……?)
快晴の昼下がり──伊月は恥ずかしさの中に、とても暖かい幸せを感じていた。
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