第26話:俺はお前の兄弟子だ。弟のことを気遣うのは当然だ



◆◆◆◆



「志度光悦。顔を上げろ」


 懐かしい声に、光悦は声を上げた。塗り壁とも呼ばれた巨漢の石動有馬が、むすっとした顔でこちらを見ていた。


「石動殿。あなたも来られましたか」

「ああ。俺の言ったことを覚えているな」

「はい」


 そう言った瞬間、光悦の頭に石動の拳骨が落ちた。懐かしい感触と衝撃と痛みだ。このサザエのような大きさが懐かしい。


 何度となくこの兄弟子には拳骨を食らったが、そのすべてはこちらを思いやっての鉄拳制裁だった。嫌だと思ったことや憎いと思ったことは一度もない。痛みがなければ時に覚えられないのが剣術である。油断すれば指を落とし、目を潰し耳鼻をそぎ落とすのが刀の鋭さ。それを扱うとき気が緩んでいれば、拳骨で引き締めるのも道理だ。


「馬鹿者。蝉のようにさっさと死におって。お前が死んだら鉄拳制裁してやると言った約束、果たしたぞ」

「石動殿の御恩情には、生前何一つ返せませんでした。不肖の弟弟子とお笑いください」

「お前は本当に愚かだな。死んだ後になって言うとは。そんなだからお前はいつまで経っても半人前なのだ」

「申し訳ありません」


 謝ると、再び拳骨が落ちる。だが、不思議と怖くはなかった。殴っている石動の目元に涙があったからだ。つくづく、情の深い素晴らしい兄弟子だった、と光悦は思う。


「拙者などとうの昔にお忘れかと」

「忘れるものか。肺病に七転八倒しつつも刀を握るその姿、外刀流のあるべき姿そのものであった」

「もったいないお言葉です」


 石動はその場で少しだけ話をした。彼が正忠亡き後外刀流を継いだこと。幕末となり、日ノ本の世が大きく動こうとしていること。


「時代は変わった。武士の時代は終わり、海の向こうの英吉利、独逸、亜米利加。そういった国々が進出してきた。日本はいずれ列強諸国に肩を並べるだろう」


 石動は遠い目をする。新しい時代の曙光を見た者の目だ。


「俺は剣を極めることは叶わなかったが、師から継いだものを次代に託すことができた。俺は幸せ者だ」

「石動殿こそ、外刀流の要でした」

「よせ。お前の腕ならば、あるいは病さえなければ流派を継いだのはお前だっただろう」


 そこまで言うと、石動は言葉を切り、光悦を見つめる。


「……あの禿、藤について聞きたいか?」


 光悦はうなずく。


「藤はお前が亡くなった後、立派な花魁となった。江戸の男の誰もが一度は会いたいと願う太夫だぞ。客のどんな無理難題も笑顔でこなし、床入れでも相手を満足させる。まさに吉原一の花魁と誉めそやされたのだ」

「そうでしたか。一度見てみたかった」


 光悦は美しく成長した藤を思い描こうとする。しかし、記憶の中の彼女は禿であり、うまくできない。


「だが、藤は人気の頂点で自分を身請けしてな。その後尼になった」

「尼、ですか」

「ああ。むしろ尼の時の彼女の方が生き生きとしていたな。寺子屋で子供たちに文字を教え、時には芸事を披露し、老人には優しく、貧しい者たちには炊き出しまで行った。皆彼女を菩薩のようだと称えたぞ」


 光悦は尼僧の藤を想像する。雰囲気だけは何となく思い描けた。


「そして、彼女は俺が死んだときもまだ尼としてあの寺にいた。俺が言いたいことは分かるな」

「はい。何とお礼を申し上げてよいか」


 光悦は深々と頭を下げた。


「俺はお前の兄弟子だ。弟のことを気遣うのは当然だ」


 石動は細身の光悦の肩に、大きな手を置いた。


「お前と剣を共に学んだ時間は短かった。お前はあまりにも早く死んだからな」


 石動の手の重みが光悦には心地よい。


「だが、その短い時間の中で俺が見たのは、お前の刀に対する貪欲な姿勢と、それに見合う実力、そしてお前の飾らない真摯な人柄だった。お前は間違いなく一流の剣客であり、男児だ。胸を張れ」

「ありがとうございます」


 もう一度、光悦は頭を下げる。そして再び頭を上げた時、もうそこに石動の姿はなかった。


「石動殿、感謝いたします」


 最後まで潔い石動らしい去り方だ。自分のような異形の剣に対し、石動の剣はいつでも正々堂々としており、甲冑を着たことを想定した重く緩やかな動きの外刀流を体現していた。その彼に認められたのだ。光悦は静かな喜びを胸に抱いたまま、再び座し、待ち続ける。待つことだけが彼に遺された全てだった。



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