第15話 趣味嗜好
足を止めて、上に向かって果てしなく続く闇の中に視線を向ける。いつもより疲労度は低い気がする。今日こそはいけるかもしれない――
「……いや、やっぱこれ……無理だわ」
徐々に、初めの速度を維持できなくなってしまう。太腿を高くリズミカルに上げていくのが辛い。やがて、体力は尽き結局普通に石段を上がることにした。
継続は力なりとはよく言ったものだが、ことこれに関しては一向に前に進めている気はしない。力尽きた場所が果たして昨日よりも頂に近いのか。それは文字通り闇の中。
一歩踏み込むごとに、この時期時間特有の冷たい空気が肺を侵し、この身をキリキリと痛めつけてくる。でも、あまり不快な感じはしない。むしろ、火照りが冷めて心地よいくらいだ。
やがて頂上――神社へとたどり着いた。鳥居の近くから、息を整えながらぼんやりと社を眺める。闇の中にぼんやりと浮かぶシルエットには、やはり雰囲気がある。
リープして最初の土曜日から始めたランニングコースの折り返し地点がここだ。
身体を鍛えようと思い立ったのは、精神性が26歳ゆえだった。昔は割と運動嫌いで、体育の授業だって億劫で仕方なかった。
だが、この年になりようやく体を動かすことの大切さを知った。鍛えられた肉体の魅力を知った。それに、いいストレス解消法にもなる。
あとは帰って自重トレーニングが待っている。
夜空を見上げると、よく星が輝いていた。この辺りはさすがにかなり暗い。近場にある絶好の天体観測スポットで、よく重宝したものだ。
人目がないことをいいことに、ぐっと手を伸ばしてみる。
昔は星空を見るのが好きだった。頭の上に広がる果てしない闇に、ひたすら心惹かれた。
その憧れも関連書籍や天体望遠鏡と共に、実家を出るとき押し入れへとしまい込んだ。以来、今日まで一度も取り出していない。
体力がある程度回復したところで、後半戦を開始する。階段を軽快に下って、また住宅街の中へ。
流すように、ゆっくりと気楽に家へと向かって走っていく。
「タカ?」
歩道を行く人影を車道に出て追い抜くと、すれ違いざまによく知っている声が聞こえた気がした。慣性で数歩進んでから止まる。
息も絶え絶えに振り返るが、正直暗くてよくわからない。ただ、うっすらと浮かび上がるシルエットはかなり小柄で、声と合わせて正体には察しが付く。
「何してんだ、こんなとこで」
「あのねぇ、それはこっちのセリフよ!」
声の主が駆け足気味に近づいてきたので、先制パンチを入れる。
が、空振り。そいつ――陽菜希は負けじと強い勢いで立ち向かってきた。ここまで近いと、その顔がよく見える。うん、よく眉毛がつり上がっているな。
ベージュの上着に白っぽいワイドパンツ、手には簡素な造りの手提げバッグ。とても学校帰りには見えない。
「見てわかるだろ、ランニング中だ」
「らんにんぐ……ごめん、あたしちょっと聞き間違えたみたい」
目をぎゅっと瞑り、ご自慢の額に手をやる陽菜希。軽く頭を振って、よほど信じられないらしいのがわかる。
失礼な奴め、と思うが中学時代の俺をよく知るこいつだから無理はない。それこそ、本来の時間軸の自分だって信じられないだろう。
「いいや、大丈夫だ。合ってるぞ」
「え、本当にランニングなの? あの走るランニング?」
「何か経営しているように見えるか?」
「いや、見えないけど」
陽菜希は首を横に振った。
「……念のため聞くけど何のために? 殺人鬼にでも追われてたわけ?」
「そんな馬鹿なことあるわけないだろ。ただ、鍛えるために、だ」
「…………マジで」
明日は雪だわ……と幼馴染はテンプレめいたことを呟く。若干怯えたような表情で、先ほどより激しく首を振る。
けれど、そんな反応をやはり仕方ないと思ってしまう。
身体を鍛えることの何が楽しいんだ。時間の無駄だ。進んで苦しい思いをするのは変態の所業――過去の自分の言動はたぶんこんな感じ。我ながら最低だ。
トレーニング自体に好悪を持つのは個人の意見の範疇だとして、他人を批判するのは行き過ぎだ。趣味趣向は人それぞれ。最大限、尊重すべきだと今の俺はよくわかっている。
それでも、傷つかないわけじゃない。筋トレは心までは鍛ええられないのだ――と誰かも言っていた気もする。
「じゃあ俺もう行くから」
「ま、待って、待って。ごめんってば。でもその信じられなくて。あのアンタがそんなことするなんて」
「そうだな。ガラにもないことはわかってるよ。お前からしたら、
「ううん、そんなこと思ってない」
真剣な口調で陽菜希は言い切った。表情をしっかり引き締め、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
なんという変わり身の早さ。さすが特技は感情のスイッチングなだけはある。これは俺の目から見た特技だが。
「いいと思う。むしろ、ちょっとかっこいいかも――って、なんでもない。何も言ってないから! 何言わせるのよ! あたし急いでるから。それじゃあねっ!」
とんでもない早口で言うと、陽菜希は逃げ去っていった。ホント足早いよなぁ、あいつ。とちょっと筋違いな感想が浮かぶ。
何だったんだ、マジで。自発的に言ったくせに、最終的にこっちに責任を押し付けて、終いには勝手に恥ずかしがって走り出すなんて。幼馴染の情緒がただただ心配になる。あそこまでおかしな奴だったか?
まあいいか。言われて悪い気のする言葉じゃない。たぶん夜だから、頭がおかしくなっていたんだろう。
陽菜希は夜が苦手なのだ。昔からお手本のような健康優良児。鳥って夜目聞かないらしいな——などと言って散っていった、小学校のクラスメイトをふと思い出した。ちなみにそれは俺じゃない。本当だ。
だからこそ、あいつは何だってこんな時間に出歩いてたのかが普通に気になる。もしかして――
「不良にでもなったのか!?」
思わず口に出してみたが、それは虚しく闇夜に吸い込まれるだけに終わった。
馬鹿馬鹿しい、ちょっとした用事だろう。コンビニに行ったとか。今度会ったときにでもそれとなく聞いてみればいいさ。
体質だって変わることはある。ちょうど俺が運動を好きになったように……もっともこれはただタイムリープしているからだが。
まあ、俺以外にタイムリープしてるやつなんていないか。そう思いながらも、自分がそうなのだからもしかしたら――思考が堂々巡りになっていく。
あほくさ。いいから今はランニングの続きだ。
気合を込めるように短く息を吐いて、俺は猛然と走り出すのだった。
◆
「あ、お帰りー」
キャミソールにショートパンツというラフな姿で、首元にはタオルがかかっていた。これから部屋に戻るところらしい。
「グッドタイミング、今ちょうどお風呂空いたとこ」
「みたいだな」
「ちゃっちゃと入っちゃいな。汗臭い」
姉貴が眉をひそめて鼻をつまんで見せた。
「それはすみませんね」
ルール無用に顔を走っていく汗を腕で拭う。まるで雨に打たれたように、全身が濡れそぼっていた。それを爽快に思っているのは、すっかりこの日課に慣れた証だろう。
中学時代から愛用しているスニーカーを脱ぐ。そろそろ本格的にランニングシューズでも買おうか。ただ、金はない。
結局のところ、運動に精を出している原因はそこにもあった。この生活、とにかく金欠なのだ。親にせびるわけにはいかず、かといって校則でアルバイトは原則禁止
ゆえに、余暇の過ごし方のバリエーションにひたすら乏しい。家にある漫画やゲームは、レトロと懐かしむにはまだちょっと早い。
「しかし、よくやるねー。お姉ちゃんには絶対ムリ!」
「姉貴も少しくらいちゃんと身体動かした方ががいいぜ」
「……どこ見て言ってます?」
「どこも見てねーよ」
ただ反射で口にしただけだ。別に、姉貴の体型におかしなところはない。パッと見た限りではだが。
「でもいきなりどうしたわけ? やっぱり、こうこうでびゅー?」
「うるせーな」
「あー、怖い怖い」
おどけたような言い方をして、姉貴はわざとらしく肩を竦める。そのまま二階へと向かおうとするが――
「あ、そうだ。ちょっと待って」
何かを思い出したように言うと、駆け足気味に階段を登っていった。
いや、早く風呂入れってアンタが言ったんじゃねーか。理不尽に僅かな反感を覚えつつ、仕方なしに戻ってくるのを待つ。
いや、その前に水分補給でもしておこう。リビングに向かいかけたとき、後ろからバタバタと階段を下りる音が聞こえてきた。
振り返ると、姉貴が白黒のチラシを突き出してきた。
「これ。もう知ってるかもだけど」
「なにこれ」
「見ればわかるでしょ」
差し出されたチラシを受け取って、しげしげと眺める。『御笠ヶ原高校天文部新入生歓迎星見会』と上部にタイトルがデカデカと。
確かに、姉貴の言う通りだった。それでも、何か説明は付け加えろと無言のうちに抗議する。
「タカ、図書委員になったんでしょ? 委員長とお姉ちゃん、同じクラスなの。ていうか、友達。親友。悪友?」
「なぜ最後は疑問符が……なるほどな。図書委員長が天文部の部長で、
「惜しい! 天文部の部長は、いつも一緒にいるもう一人の子なんですー。あなたが図書委員ってことで盛り上がって、その流れでこれ渡すように頼まれた」
「どういう流れなんだよ……」
いや、何となく想像はつくが。
わー、紗英ちゃんの弟さん1年生なんだー。だったらこれどーぞ……的な感じだろう。この時期、どの部活も新入生へのアピールは必死だ。部長ともなればなおさら熱が入る。
とはいえ、現状特に部活に入ろうとは思ってはいない。そんな気持ちで参加していいものかとは迷う。
「まーいいんじゃない。数合わせ的なアレにはなるっしょ」
「いいのか、それで……」
この姉、テキトーだな。
「こういうの楽しめるのも今だけなんだし、気軽に参加すれば?」
何となく姉貴の言葉が身に染みる。新入生だとチヤホヤされるのは、この時期のこの1回限り。
まあ、俺は絶賛2度目の高校生活なわけだが。
「それにほら、将来の役に立つかもだ」
年長者らしい笑い方をすると、姉貴は再び階段を上がっていった。
チラシを握りしめて、それをぼんやりと見送る。
当時の俺がどんな夢を描いていたのか。忘れたわけではない。
でも結局その道は選ばなかった。より現実的に、確かな稼ぎを得るために、法曹関係の仕事へと進むことを決めたから。
26歳の俺は、理想の代わりに堅実さを手中に収める寸前だったのだ。
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