気まぐれフリーランスの軌跡

井森 蒼

第1話 始まりは専業主婦への転職

 新卒から10年勤めた会社を退職した。現在私は夫と2人暮らし。明日からの私の肩書きは「専業主婦」だ。


 自分で言うのも変な話だが、前職の職場環境には恵まれていた方だと思う。直属の上司や同僚にも恵まれ、そのお陰で仕事で辛い時も乗り越えることができたし、決して残業過多でもなかった。人事という仕事柄、日々の業務は決して楽なことばかりではないが、適度な緊張感やプレッシャーがあって飽きない。

そんな私がなぜ退職したかというと、上司や同僚にはうまく言葉で伝えることができなかった。


 転職でも夫の転勤でもなければ、子供を授かったわけでもない。

 会社のことは好きだし、決定的な嫌なことがあったわけでもない。


 では何かというと、綺麗事に聞こえてしまうかもしれないが、本当の退職理由として挙げるなら「家族で過ごす時間を大切にしたかった」の一言に尽きる。そんなことを言うと「仕事をしていても家族は大事にできるだろう」と思われてしまうのがオチだが、これが私にとっては結構難しい課題だった。


 私は不器用で、仕事なら仕事、家庭なら家庭...というように、1つにしか集中ができない。他人を優先するあまり、家族が後回しになってしまう。人事という仕事自体はやりがいがあり充実していたけれど、名前の通り「対ーモノ」でなく「対ーヒト」の仕事が多いので、気がつけば自分のことよりも人のことを考えるばかりの日常になっていた。


 コロナによる在宅勤務によってその”症状”は悪化した。在宅勤務の作業効率は抜群で、例えば人事的な極秘の会話をする際には会議室を予約しなくても家で好きな時間に打ち合わせができるし、会社宛の固定電話が鳴ることもないので集中力を切らずに目の前の作業に没頭できる等、仕事環境としてはこの上なかった。


 ただ、ずっと家にいるせいで定時になっても仕事とプライベートの切り替えができない。以前は仕事を終えて会社から出て、電車に乗ればそれだけでも多少の気分転換になっていたが、在宅勤務になると良い意味でも悪い意味でも仕事に集中できすぎてしまう。ひどい時には、夫が会社から帰ってきていることにすら気が付かず、黙々とPCに向かってしまっていた。


 やがてコロナによる出勤規制が次第に弱まり、週に数日は会社に出勤するという時期になると、今度はまた別の価値観が見えてきた。共働きの私たち夫婦はコロナ以前は何も疑問に思わずに毎日自宅と会社を往復していたわけだが、よくよく考えてみると会社では昼休憩も含めて最低9時間程度はデスクに拘束され、その上通勤時間で計1.5時間程度必要...となると、平日は睡眠時間と食事・風呂を除けば自由時間がかなり限られてしまう。


 家の方が仕事が捗る上に無駄な時間のロスも無いため、「仕事をしすぎてしまう」ということにさえ気をつけることができれば在宅勤務の方が遙かに良い。


 人間に与えられた時間は平等に1日24時間だ。自由ばかりを追い求めるわけではないけれど、会社員である以上は少なくともこの時間の使い方を続けなければならない。私は定年退職まで30年以上も期間、このライフスタイルを継続できる自信が無かった。


 朝起きて、ふと思い付いて夫に言った。


私「会社辞めてみようかな...?」

夫「いいんじゃない?」

 

 こうして、私は専業主婦に転職することにした。




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