第1話 高校生『雨空 味雲』の放課後

 いつもの景色が流れてゆく。いつ見ても同じ、授業の内容など日本語と同じ発音の外国語のようにも聞こえてくる。それはもう日常風景、勉強が本分などといった言葉は味雲の右の耳から入ってそのまま左の耳へと素通りするものでしかなかった。

 勉強など将来を輝かせるための道具に過ぎない、それが味雲の価値観。道具を有効に活用するために真面目に授業を受ける姿がそこにはあった。理解に苦しむ言語や数字の扱い方。大変ではあったものの、全てを理解する必要など初めから感じてはいなかった。

――テストで赤点さえ回避すりゃ問題ないね

 そう、最低限就職の道筋にすればいい。無難な点数でも取れれば無難な人生に繋がってくれる、そう信じて。

 どれほど経っただろう。頭の疲れを抱え込み、理解することが面倒になり始めたその時、ようやく授業は終了の音によって一旦終止符が打たれた。生徒たちはそれぞれに喜びの声を上げる。その合図が嬉しいことは味雲の想いの中でも例外ではなかった。

 味雲は昼休みという心地よい響きを身体全体で実感するとともに席を立つ。一度大きな伸びをして、食堂から漂う香りにつられて意思のないゾンビのように動き始めた。脱力感に身を任せて歩く様。それはこの上ない程に安らぎを与えてくれる。不思議な心地を沁み込ませて澄んだ響きを奏でていた。

 しかし、その感情も心行くまで味わうことなど許されなかった。光のような速さで脳裏に走って心地よさを阻む衝撃。よぎって頭を撃ち抜いたそれは記憶の破片。今は亡き父のおぞましく痛々しい姿。最期の時。味雲が与えてしまった幕引きに飾られた姿。ふらりと不穏に揺れる思考と頭を押さえて無理やり体勢を立て直す。

――アイツは死んだんだ、気にするな

 あまりにも覚束ない記憶は頼りなく、なにがあってこうなったのか味雲にも分からない。覚えているのは酷い父だったことと警察による捜査が終わって深い闇のような迷宮への奥へと放り込まれ鎖されたことが分かったこと。迷宮入りを知ったのは母に引き取られて姉と三人で過ごし慣れて落ち着いた頃だったということくらい。

 そして、父を殺したのは自身だということ。方法こそは覚えていないものの、確実に味雲がその手で仕留めたということはその手の感覚が記憶していた。

 息苦しい記憶を、忌々しい想いの断片を噛み締め歩き続ける味雲を呼び止める声が激しく耳を叩いた。

「おーい味雲、待ってくれよ」

 ガラガラした声を必要以上に響かせながら大きな足音と揺れを起こし廊下を駆けて迫り来る男がいた。味雲は身体をびくつかせながら引き攣った笑みを浮かべてその男の呼び出しに応じた。

「堂一うるせえよ」

 堂一、味雲のクラスメイトだ。同じクラスになっても尚、高校という新たな環境に漂う明るさと湿っぽさが入り乱れた雰囲気に馴染むことのできなかった味雲と周囲に誰も近寄らない堂一。孤独同士で話し始めて気が付いたら仲良くなっていた。ひとりぼっちのふたりきり、そんな言葉の似合う後ろ向きな友情。

 中学時代は夜中の学校に数人で忍び込み窓ガラスを割って回ったり公園の静けさを花火と歓声で打ち破ったりその他様々な迷惑を世間に刻み付けるといった経歴がある人物だったそう。そんな荒れていた彼だったから周りは引いていたのだろうか。過ちは引きずられて今も尚ついて回る。見た目に似合った荒々しさを持つ彼だったものの今は猛省したようで荒波のような心は影を潜めていた。

 ふたり並んで食堂へと足を運んで共にラーメンを頼む。すぐに出されて受け取って。テンポよく席に座ってさあ食べよう、そう思った時、堂一が声を発した。

「なあなあ味雲、俺たち学校卒業しても一緒にこうやって並んで飯食ってんのかな」

 振り向きもせずに味雲は淡々と答える。

「そうなんじゃね? たまにかもしれないけどな」

 嘘、心に何かが刺さる。味雲のどこかから湧いてきた予感が味雲を刺してくる。

――今日は……眠れぬ悪夢の夜になりそうだ

 心を突き抜くようになにかが刺さった日の夜、決まって眠ることもできずに闇から湧いてくる鋭い言葉に刺されて耐えられないのだ。そんな時にはただうずくまることしか出来ずに耐えきり逃げ延びるだけ。

 黙り込む味雲の顔を覗き込んで堂一が言葉をかける。

「大丈夫か」

 曇りきった表情をどうにか晴れさせて明るみを演出する。

「大丈夫だ」

「ならよかった。なにかあったら相談しろよな、つっても話せないこともあるだろうけどな。俺みたいに」

 大丈夫、そんな嘘に対してもまた、心の底のなにかが味雲を咎めるようにひたすら刺し続けていた。

 味雲は痛みに耐えながら、背後から来る鋭い視線による観察を察知して振り向いた。そこに座っていたのは女。黒くて細い髪は背中を覆っていて、形の良いくびれに届くほどまでに伸ばした人物。本来美しかったであろう瞳は歪んでいて鋭く尖っていた。その目に宿る感情は追憶の陰だろうか、味雲には重たく冷たく、しかし何よりも悲しみを強く感じていた。

 少女は二部の新聞を並べて新聞と味雲たちを交互に見つめて頷き一度、恐ろしいほどに鋭利な視線を放った。その瞳は泣き顔にも見えたものの、感情はそれとはかけ離れた刺々しいものだった。

 背筋に寒気が走る、思考がぼやけて身体は震えを密かにもたらす。脳が味雲の全身に危険だと叫び続ける。目を逸らそうとしたその一瞬、少女は鋭い雰囲気のかけらも残さない柔らかさを塗り付けて微笑んだのを目にした。

「どうしたんだ?」

 堂一の問いかけに対して味雲は言葉を詰まらせつつも少女のあの視線の追憶に脅迫されながらどうにか答える。

「なんでもねえよ、学食のラーメンの味じゃ物足りないなって思ってただけ」

 途端、堂一の表情が険しくなってゆく、顔のしわが深く強くなってゆく。

「俺も思ってたけどそれ、なんでもなくねえよ、満足できねえメシ食わされてる時点で一大事だろ」

「……そう、だな」

 堂一にすべてを悟られなかったことに安堵しつつも気を引き締めた。味雲の言葉、堂一の声、会話のすべてが筒抜けなのだという事実、もはや背筋が凍り付いてしまいそうな程に深くて冷たい恐怖だった。

「マズいならさっと食ってパッと出るか」

 この上なく自然な会話を吐き出すとともに物足りないラーメンを流し込み、ふたり並んで食堂を後にする。

 歩くふたりの後ろへと迫る強い気配。それはやがて味雲の隣りに並び肩に手を置いて低くて枯れ葉を運ぶ木枯らしを思わせる声で伝えられた。

「雨空 味雲くん、放課後集合ね」

 呆気に取られて黙ったまま口を開く味雲。その声に乗っているはずの感情はフィルターでも掛けられていたのか、綺麗につかみ取ることはできなかった。一方で堂一は額に手を当てて首をゆっくりと横に振っていた。

「お前、よりにもよって甘土 霧葉に目ぇつけられたのかよ」

「ん? 美人だったな。あんまり好みじゃないけど」

 まんざらでもない様子を見せる味雲。しかしながらこの男、女子に話しかけられたのは久々である。それも空白の年数を数えるのを途中で放り出してしまうほどに。

 パッとしない様子を見せる味雲に対して堂一は声をひと際強めて濁らせて、警告を撃ち突けた。

「好みじゃねぇならぜってーやめとけよ。知ってるだろ? あいつは頭が残念なんだ」

――え? そんな有名なのか。もしかして俺、学校のこと全然知らない?

 味雲は知らなかった。例え身近なことであれども興味のひとつも持たなければそこは別の世界。何故だか哀れみの視線を向けられて味雲はただただ困惑するばかり。すべては放課後に確かめることとした。



  ☆



 授業がすべて終わってついに訪れた確認の時、霧葉のもとへと言われるがままに向かおうとする味雲を堂一は全力で止めに入る。

「俺に彼女ができるのがそんなにイヤなのか? 確かに俺がいなきゃひとりぼっちになるもんな」

「そんな女々しい理由じゃねぇよ。ってか知らねぇのかよ、あいつはダメだ。あいつは」

「へんな宗教みたいなことやってる、でしょ」

 突如割り込んできた声のした方向にふたりして目を向ける。細くて長い黒い髪に悲しみを思わせる歪みを持っていても尚美しい瞳、間違いなく甘土 霧葉その人だった。

「宗教ねえ、間違いでもないけどそう邪見に扱われるのはつらいものよ。アメソラ、来て」

 校門で待ってるからな、と言葉を残した後、堂一はただただ手を合わせてからかい半分哀れみ半分で祈るように目を閉じて腰を折っていた。

 男女は手を繋いで隣のクラスへと入ってゆく。霧葉の指は味雲の指に絡められていた。柔らかさと程よい冷たさは味雲の心にまで澄み渡っていた。気が付けば顔は熱を上げていて、赤みを帯びていた。

「な、なんで恋人繋ぎなんだよ」

 味雲が動揺して慌てふためく一方で霧葉は平然とした態度、淡々とした口調で答える。

「指を絡めた方がほどきにくいから逃げられにくいし」

 愕然として表情を崩す。

「お前、そんな顔して実はバカだろ」

「お前じゃない、霧葉って呼んで」

「はいはい霧葉さん」

「さんはいらない」

 考えることすらバカバカしいと思えていた。その瞳に見つめられた者はすぐにでも知を感じるだろう、黒く美しい髪からは清きものを見い出すだろう。しかしながら味雲の目にはその目は悲しみの破片が見えていて恐ろしさも感じていて、長い黒髪はホラー映画の幽霊のように映っていて、それがまた恐ろしさを増していた。とても好きになれそうには映らない。

「はぁ、俺に関わろうとしないでくれる? 昔からホラー映画の住人なんだよ黒のロングヘアーは。それと美人は女優みたいだしその顔が正直な心を見せてるか分かんねえからさぁ」

 霧葉は睨みつけて相手の言葉を切り伏せる。

「私も好きでこんな顔してるわけでもないんだけど? 好きな顔だけど」

「やっぱバカだろ最後のそれ」

 教室へと入り込み、奥の方へと踏み込んでゆく。絡めていた指をほどいて握りしめ、霧葉は味雲の身体を力の限り放り投げた。

――は?

 理解が追い付かない。一瞬の思考の空白ののち、背中に痺れのような感覚が走った。机に打ち付けた痛みだと理解するのにどれだけの時間がかかっただろうか。意識をはっきりとさせてすぐさま鋭く尖らせた。霧葉を睨みつけて立ち上がる。霧葉は左手に銀色のなにかを持っていた。夕日に照らされて鋭い殺意の輝きを放つそれは、殺意とは裏腹に刃はなまくら。

――ペーパーナイフ!?

「なんだ、切れ味皆無かよ、ビビらせるな」

 目の前の美人はペーパーナイフを味雲に向けた。その目つきの鋭さの方が切れ味を持っていそうだった。

「で、なんだよ。シャレたペーパーナイフだな。見せびらかしたいだけか?」

 霧葉の厚く艶めかしい唇が開かれて声が言葉となって現れる。

「今からあなたを切る……中のモノを」

 味雲の表情は緩み、軽い口が叩かれ始めた。

「何言ってんだよ。過去の傷害事件、それらの中に凶器がそんななまくらなペーパーナイフだったことなんてあったか?」

 霧葉はペーパーナイフを握りしめた腕を掲げて素早く振り下ろす。味雲は脅威的ななにかを見い出して飛び退き躱す。

「あっぶね」

 いかに切れぬものであれども全力で振れば痛みを与えることができるだろう、痣のひとつくらいには充分なりえた。

「なまくらも鈍器にはな……」

 視界の中を上から下へとなにかが素通りしたのを確認して言葉は途切れる。視線を下へと移すとそこには薄茶色の塊があった。床に落ちていたそれは味雲の髪と同じ色をしていて、その事実を確認するだけで余裕の半分は切り落とされて行った。

「散髪には使えるんだな。なまくらペーパーナイフで傷害罪おめで」

 言葉をも斬るような強い意志を持ってペーパーナイフは振り上げられた。時も開けずに再び振るわれる。味雲は身体を逸らし、足を後ろへと引き下げ、斬撃を躱していた。

「当たらねえよ」

 刃物による攻撃を躱し続ける。霧葉の攻撃は届くことなく、ただただ空しい光の線を描き続けるだけだった。躱しながら行き着いた先は教室の出口付近。なまくらのはずの凶器は、その敵意は未だに霞むことなく味雲に向けられた。

「避けるしか能のない卑怯者め」

 対抗手段のひとつも持たない中、動かすことのできるものなど足か口のみ。味雲は大きなため息をついてただ述べるのみ。

「ふつうはその避けすらできないんだけどな」

 その言葉を耳にして霧葉はただでさえ細い目をさらに細め、きつい睨みを向ける。不器用な睨み、ひそめられた眉はやはり悲しさをどことなく感じさせる。

「つまりあなたは普通じゃない」

「話せば分かる」

 一方で応えを返した味雲の表情はこの上なく爽やかで、いかにも敵意はありませんと言いたそうなものだった。

「問答無用」

 鋭い目つきに鋭いひと言。初めから斬りつける気満々な様子。

「なら俺は逃げるぞ東の国の野蛮人め」

 脅威は味雲をどこまで運んでくださるのだろう。教室を飛び出して脅威から逃げてゆく。諦めることなく追いかけ迫り続ける霧葉。

「ついて来るなよストーカー」

 余裕のない状況であるにも関わらず余裕のある言葉、現実離れした状況を前に平常心は味雲の心の中で迷子になってしまったようだ。

「あの事件でどうしてあなたが生きてるのか分からない。もしもあなたがこの世ならざる悪しきモノなら……狩る」

「へんな宗教って本当だったんだな」

 そこまで分かってしまった味雲にはもう、霧葉に構う理由などありはしなかった。走る、走る。足を踏み出す感触はいつもと異なっていた、駆け巡る焦燥感はいかにも異質で抱くだけで息苦しい。なにも言うことなく長い廊下を走り抜ける。逃げ惑う味雲の脳裏にかつて味わっていたなにかがよぎっていた。父の怒りに歪んだ顔、行き場のない感情を闇雲に息子に放つ拳。かつて知ったあの事実。


 鬼とは、人そのものだった。


「やめろ……俺は、俺……は」

 死にたくない、まだ生きていたい。笑って生きて普通に過ごして普通に育っていつの日にか普通に誰かを好きになって普通に一緒にでかけて普通に就職して普通に結婚まで行き着いて、普通に子と笑い合って普通に死ぬ。この上ない普通が欲しくて愛しくて、欲しくてたまらなくて。


 手を伸ばしても中々届かないありきたりに、片想いの恋をしていた。


 普通ではないものから離れるためにも今を生きて何事もなかったように振る舞うためにも走ってゆく。景色は素早く後ろへと、風をも追い抜いて、必死で逃れてゆく。走り駆け突き進み、やがて足は疲れの痛みを発し、階段を下りる衝撃のひとつひとつが痛く重たく重なりゆく。それでもいたわりの言葉すら掛けることなく駆けて行って、下りて降りて一階へとたどり着いた。

 その瞬間、集中力も意識も全ての目を奪う痛みが脚に襲い掛かってきた。膝を折って言葉にもならない声を上げながら後ろを振り向く。

本来ならばありえない距離。黒髪の少女はそこからペーパーナイフで脚を斬ったとでもいうのだろうか。

「この技は使いたくなかったのだけれども、あまりにも愛らしく逃げるものだから」

 少女霧葉の攻撃範囲とはいかほどのものなのか、味雲は考える。その頭を納得させる答えなど当然現れなどはしなかった。

「そう……私の愛を、受け止めて。イヤだ、イヤだよ。見捨てないで、こっちを見てよ」

「誰が見てやるものか殺人鬼」

「イヤだイヤだ。あああああ」

 霧葉は頭を押さえ込み、うずくまる。目は異様に見開かれ、床ではないなにかを見ていた。その瞳になにが映されているのだろう。見当もつかないが考える必要もない。味雲は痛みを叩いて再び走りはじめる。慌てるあまりそのまま通り抜けようとしたが玄関の簀の子を叩く音を上履き越しの足が響かせて気が付いた。味雲は上履きから品のある茶色をしたローファーを取り出して素早く履き替える。

「走りにくいな、絶対」

 コンクリートの固い道をお堅い印象の靴越しに叩く感触は先ほどよりも強く、痛む脚にしっかりと訴えかける。更なる痛みとなって強く強く、響く響く。校門へと向かう途中、堪えることが叶わずに足を引きずり歩いてしまっていた。微かな血の臭いが周囲に咲き誇る花の優しく優雅な香りに混ざっていた。苦しみと優しさによって奏でられる不釣り合いな旋律に大きく咳き込む。校門では友が待っていた。

「堂……一」

 堂一は目を見開いていつものガラガラ声で言った。

「おい! 大丈夫か。あの女、ぜってえ許さねえ」

「よせ、あいつは普通じゃない」

 よろめきながら校舎の方に目を向けた。壁に寄りかかるように歩く霧葉の姿がそこにはあった。

「アメソラ、その男は危ない」

「なんだよ、お前の方が危ない」

「お前じゃなくて霧葉」

 気が付けば言葉を返していた。

「生きろ、堂一。俺も逃げ延びるから」

 堂一に逃げるよう促す。しかし、堂一は首を横に振った。

「ここで逃げたら味雲が逃げきれないだろ」

 ふたりには分からない追憶にあてられてよろめいていた霧葉だったがやがて壁から手を離して元通りとなっていた。

「今日の昼に広げてた新聞、アメソラの事件はイマイチ分からなかったけども、もう片方は透けるように見えてた」

 霧葉の言葉は続けられた。

「覚えてる? あなたが中一の頃、真夜中に校舎に忍び込んで荒れていた日々のこと」

 堂一は震えながら頷き味雲へと気まずそうな表情を向けた。

「その最後の日、なにをしたのか。なぜあなたが忍び込むのをやめたのか」

「やめろ。やめてくれ」

 しかし霧葉はやめない。棘の生えたような声で責め立てるように続ける。

「忍び込み常習犯が何人もいるような学校だもの。警備員が見張りを強化していても不思議じゃない」

「味雲、あいつの口を塞いでくれ」

 昏い過去を掘り返す少女に余程近づきたくないのだろう。味雲は怯えに動きを奪われた堂一の代わりに飛び込むように霧葉へと迫るも、脚の痛みによろめきふらついていた。その動きに強さなど微塵も感じられなかった。弱々しく迫る味雲を霧葉は抱えるように受け止めた。

「手負いのアメソラに止めに行かせるなんて余程キライなお話なのね」

 腕の中の味雲には目もくれずに話を続けた。

「で、警備員が来ました。荒れた集団の中で自分に酔いしれる思春期な上に常識が足りない、しかも日頃の行いで倫理観が麻痺したあなたはその手に握ったバットを持ち上げて」

「やめろ、だ、メ、ダ。ミクモニソレダケハ」

 苦しそうな声を上げていた堂一はその姿を変え始めていた。頭は凹み、目が飛び出始め、口は左側に引っ張られていた。顔は横へと広がり、手には金棒を思わせるバットが握られていた。目の前の歪み切った鬼は果たしてそれを野球に使う可能性などあるのだろうか。

「そう……そっちだったのね、醜い本性。憑かれたものとも化けたものとも違う。隠しても消そうとしても根元からなくなることなどありはしない。それがホントウの姿なのだから」

 悪魔の姿をした鬼は肋骨を開き背後へと広げた。

「アアアアア、テメエ、ユルサナイ、キリハアアアアア」

 その言葉に宿る感情こそが本性なのだろうか。ヒトと呼ばれし悪魔の忌まわしき姿の全てが異形という形で体現されていた。

 悪魔によって振り下ろされたバットをペーパーナイフで受け止める。耐えて、押して、打ち勝とうとして、打ち負けて吹き飛ばされてしまった。霧葉の身体は校舎の壁に叩きつけられる。重力がその体をコンクリートの地面に放り捨てた。

 その様子を目の当たりにして、味雲は堂一に向けて心からの叫びを上げる。

「なあ、もうやめよう。ほら、学校卒業してさ、働き始めたら一緒にうまいラーメン食べに行くんだろ」

「ダメ! アメソラ、それは一番マズい」

 痛みに顔を歪めて身体の痛みをこらえて叫ぶも全ては手遅れであった。

 目の前のモノはいつもの顔を取り戻して、笑顔で言った。

「ああ、そうだな、一緒にラーメン食いに行こう。そのたメニモ、ムコウデネコロガッテイルクソオンナヲ」

 なにかと人、相容れない顔、体、全てが混ざり合って醜さに凶悪な嫌悪が混ざる。肋骨の翼の背後には骸骨の集団が蠢き焼かれて働かされて潰されている様子が繰り広げられた。

「あれは……」

 恐ろしさのあまり言葉を切る味雲。起き上がって隣り合う霧葉は向こう側を見つめながら、伝えた。

「向こうはヤツの終着点、蠢くあれはきっとそうなるであろう姿。もう……地獄行きが決まってしまったみたい」

 素の貌と美しい思い出が溶け込み混ざり合っても尚、罪人の色をした男は向かう果てを背にして笑う。ガラガラとした声は醜い姿も相まってより一層下品に思えた。人と悪魔と鬼が混ざり合ったような存在はこの世のモノとは思えない叫び声を上げながらバットを掲げた。

「私が倒すしか」

 再び霧葉は鬼と武器を交えるものの、すぐに飛ばされて地面を転がる。

 鬼は味雲に目を向けた。一緒に行こう、そう言いたいのだと一目で分かってしまった。鬼と見つめ合いながら、頭の片隅で痛い記憶が刺さり続けていた。

――ああ、今夜はまた……眠れない悪夢

 味雲の脳裏で暴れ回るものたち。忌まわしき記憶も愛おしい想い出も、そのすべてが痛かった。

 その中でも最も鮮やかで忌々しい記憶が味雲を殴りつける。酒を浴びるように飲む父親に殴られて、感情すら伏せていたあの時。

――痛い、何もかもが痛い

 そして手にしたエアーガン。

――でも

 今この場で味雲がその手に握っていたものは、見間違えようもないあの時のエアーガンと同じ姿をした銃。

――痛いなら、まだ生きてる

「俺は生きてる!」

 無機質な体から響く耳障りな爆発の叫び、開いている口から素早く突き進む感情の欠片も感じさせない金色の弾。それは悪魔の額へと迫りめり込み突き抜けた。悪魔は叫びを上げて、背後の世界へと引きずり込まれてゆく。味雲はその様子を眺める余裕もなく、頭を抱えていた。高校に上がって初めて仲良くしてくれた同級生。豪快に笑って一緒に話して一緒に帰っていた人物。本性はどうであれ、友だちであること。それは抗いようのない事実。


 楽しかった想い出の全てが味雲の胸を突き刺す。


 お前がやった、お前が撃った、お前が殺した。大切なはずの人をその手に掛けた。楽しい記憶と目の前の事実が交互に味雲を責め立て続けていた。

――お前のせいか……なぁ、【眠れぬ悪夢の夜】……それとも、俺のせいなのか

 撃った時に感じたそれはどこから湧いて来る重みなのだろう。たまに味雲のことを責め立てるあの痛みにどこか似ていた。それはまさに【眠れぬ悪夢の夜】と呼ぶに相応しいものだった。



  ☆



 振り返ったそこ、瞳に映される景色によって辛うじて心は洗い清められていた。葉桜は完璧な美しさを損なっており、そこが味雲の目を惹き付けていた。

「なに、花見にはもう物足りないね、アメソラ」

 落ち着いた声を聞いて、少し恐ろしく感じられる美人が隣にいるのだと知った味雲は語る。

「喧騒が静まった後に見向きもされない寂しい桜、俺はこのくらい落ち着いた方が好きだよ。騒ぎも派手過ぎるのも、耳にも目にも痛いから」

「……そう」

 それだけの言葉と頷きで返す。霧葉の目は寂しさを訴えていた。

 それからしばらくの間、味雲はわずかに薄桃色が混ざった緑色の衣を纏った木を見つめ続けていた。いつまでも話すきっかけが作れそうもなく、霧葉は話したいことを無理やり聞かせる。

「アメソラは美人が苦手って言ってたよね、女優を連想させるから普段の言葉も嘘か真か分からないって」

 味雲は答えない。霧葉の方を見ない。霧葉の目は先程よりも弱々しくていつもの美しさは崩れていた。悲しみに覆い尽くされていた。

「こっちを見て。これからは私と一緒に動いてもらうから。あれが味雲の能力だったとしても、暴走するかもしれないし……撃ったら暴発するかも」

 その言葉は味雲の耳に直接訴え目を奪う。味雲は笑っていた。

「暴発って、やっぱバカだろ」

「やっと返事してくれた。あと私というスーパーステキ美少女にも慣れてもらうし黒髪にも慣れてもらうから」

「お前が合わせてくれるんじゃねえのかよ」

 霧葉は笑う。心の底から笑う。味雲にも分かるくらいに明るくて悲しみを感じさせないほどに。

「お前じゃない、霧葉よ」

「分かった、霧葉」

 この景色に笑顔の絶えない霧葉は真顔に戻り、ひとつ訊ねた。

「ところで、クラスメイトのあれについては」

「あれとか言うな。堂一な。そのことにはしばらく触れないで、正直つらい」

 霧葉は頷いて味雲の手を握る。指を絡め合ってしっかりと。柔らかな手の感触は味雲の心をつかむこともなく、ただ呆れさせるだけ。

「なんで恋人つなぎなんだよ」

「え? 逃がさないためかしら。他の女の子のことを見ることは許しません重罪です断罪ですってね」

 しばしの沈黙ののち、時を流す風が桜の木から葉をもぎ取るさまを目にしてようやく味雲は苦笑とともに言の葉を散らした。

「やっぱバカだろ。でもさ、そっちのが気楽でいいかもな」

「バカじゃないから。成績は常識でしか測れない物差しだから」

 味雲の目には少し苦手な姿に映る少女は諦めることなく味雲の手を優しく握ったまま歩き出した。

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