1-3)ワトスンと呼ばれた日
あの日の天気はどうだっただろうか。横須賀はあまりそういったことを覚えるのが得意でないので、思い出すことは出来ない。
山田に声をかけられたその日は、横須賀にとって変わりのない一日であったのだから余計だ。
「お、店員さん」
図書館らしい大きな窓際のテーブル。広げた履歴書に影が差したタイミングだって覚えていない。ただ、近い声に顔を上げたのは確かだ。声が近くなければ――いや、声が近くてもそもそもペンを置くタイミングでなければ、横須賀は顔を上げなかっただろう。呼ばれる、ということは想定になく、だからこそなにも考えずに顔を上げたのだ。
顔を上げた先で、山田は横須賀を見下ろしていた。サングラスをかけているので視線はわからないが、それでも顔の向きで横須賀から横須賀の手元を覗いたこと、くらいはわかる。わかるが、声をかけられた理由はわからなかった。
山田のことを認識したのは、その時が二度目だった。とはいえアルバイト先の書店で、本の案内をしたことがある、くらいだ。小柄な体に大きなサングラス、きっちりと撫でつけられたオールバックは、その一度きりの来店でもあの人だ、と思う程度の特徴にはなっている。
しかし、だからこそ似た外見の別の人物だった場合は横須賀には見分けられないだろう。眉尻のあがった特徴的なりりししい眉やら見える部分の鼻口の形で見分けることは、横須賀には少し難しい。とはいえ、店員さんと呼んだのだから同一人物で間違いはないだろう。
きょと、と瞬いた横須賀は、どうすればいいかわからず小さく頭を下げた。山田は特に会釈せず、相も変わらず横から見下ろすようにして横須賀を眺めていた。眺めるような物などないだろうが、それをどうと受け取ることもなく、横須賀は逆に山田の手元を見る。
そこにあったのは、本が三冊。メモ帳一枚。
「捜し物ですか」
尋ねたのは好奇心、と言えるだろう。本、捜し物。それはつい問いかけるだけのキーワードでもあった。あー、おう。と横柄に答えた山田は、手元のメモ帳をひらりと指先で揺らす。
「司書に聞いたんだがあるはずって言った割に見つからねーんだ。変なとこに紛れてるだろうからしばらく待ってくれって言われてな。めんどくせーから別のとこで探そうかと」
「何の本でしょうか」
反射のように問う横須賀の目は、爛と小さく光を取り込んだ。純然たる興味と不純たる使ってもらいたい願望。それらの色に、山田の眉が少しだけ上がる。
とはいえ、横須賀は自身の変化も、もちろん山田の様子にも気づかなかった。わかりやすく持ち上がった口角から、質問が不快を与えなかったことだけを理解する。
「変な伝承の本さ。民話のコーナー無し、地域のコーナーにも無し」
山田は本をすべて右手で抱え直し、左手でメモを横須賀に見せた。抱え直された本の背表紙とメモを見比べ、瞬き二回。ひとつ浮かんだぼんやりとした光景に、横須賀は立ち上がった。
書き途中の履歴書を伏せると本を二冊重ね、席の隅に置く。
「その本なら、宗教のコーナーかもしれませんね。ご案内いたします」
「ほう」
鞄を持って、横須賀は本棚の隙間を歩き進んだ。図書館は法則性があるから、行動に悩むことはない。それに、目的の光景もある。
そうして横須賀は立ち止まると、本の背表紙を顔を動かす。瞬きの回数は、まるで本のタイトルを読むかのようだった。それが一所で止まると、一番上の本棚に手が伸びる。
「こちらでよろしいでしょうか」
「おう。すげーな店員さん」
「通るときに見かけて、コードが違うな、って思っていたんです。タイトルまでは覚えてなかったんですけど……その時は本を抱えてたのでそのまま通り過ぎてしまったんです。本当なら、きちんと司書の方にお伝えすべきでしたね。申し訳ありません」
深々、と横須賀が頭を下げると、失笑が返った。何故失笑されたのか横須賀にはわからず、不思議そうに首を傾げる。けれども、理由は特に気にするほどでもなかった。笑っている、という事実のみでいい。だから横須賀がしたのは同じように笑い返すことで――しかし、続いた言葉にぱちり、と、瞬くことになった。
「アンタ、俺のトコに来ねえか?」
「……はい?」
脈略は、なかった。まったくもって理解の範疇外に思考すらうまくできない横須賀に、山田はにやにやと笑う。ぱちぱちと瞬きを繰り返しても、山田のサングラスに映った自身の顔がなんとなくわかるくらいでそれ以上はなかった。鏡面のように反射するサングラスはまるでゴーグルのように顔を覆っていて、なんとか見えかける隙間の奥は暗くて分からない。わからないことばかりで、横須賀はその時、ただ見返す以上ができずにいた。
だから当然ながら、次に言葉を続けたのは山田だ。
「さっき書いていたの履歴書。本を読んで履歴書の文章を考え、ってのをきっちりやっているのはご立派だが、積んだ本も書いていた内容もてんでバラバラ。司書の資格があるみたいだが、関係しそうなモノを選んでいる様子もない。勤務先にこだわりなにもネェだろ。書店のバイト勤務じゃなく正社員になりたいってだけなら、俺のトコでも問題ない。雇ってやるよ」
は、と笑い捨てる山田に、横須賀はどう返せばいいかわからなかった。山田の言葉はすべて事実だ。言い当てられたことを憤るでも傲慢さに腹が立つわけでもなく、そして幸運だと喜ぶことも出来ず、どういうことか理解しきれない結局出来ることは見ることだけで、それがおそらく横須賀の唯一の本質だった。
「履歴書を書く程度の時間はやる。動機とかそのへんは空白でもいい、事務所で適当な文言書かせてやる。埋められる必須項目だけ書いとけ」
「え、でも」
でも、に続く言葉はない。ただの反射の言葉だ。だからそれ以上言う前に出来たのは、流れるように押しつけられた名刺を見ることで――そうしてやっと、慌てたように横須賀の意識が浮上する。
「た、探偵なんて無理です、俺」
「テメェに探偵なんて無理なのは百も承知だ。場所だけで勝手に判断するな」
ぴしゃり、と山田が言い切る。でも、と困惑した横須賀は、名刺と山田を見比べた。
山田探偵事務所。所長、山田太郎。市外局番から始まっているので、かかれている番号は固定電話だとわかる。所在地は愛知県
「ご利用くださりありがとうございます。だろ」
唐突な言葉に、横須賀は瞬いた。先ほどから、山田の言葉はどれも唐突で、すぐに横須賀の意志はぽかりとどこかに霧散してしまう。言葉の意味を汲もうと瞬きばかりが増えて、くつくつと山田が笑うのをどこか遠くに聞く。
「テンプレみたいな文章、あんな綺麗に言う奴は中々いない。アンタ、使われることが心底有り難いタイプだな」
山田の言葉は的を得ていた。横須賀は、使われることに感謝する気質を持っている。名前呼んでもらえるのは奇跡で、使ってもらえるのは喜びで、感謝されるのはあまりにも有り得難い幸い。
アルバイトなんてみっともない、恥ずかしい。迷惑をかけるくらいなら家にいるようにと言われた罪悪を押し隠し、アルバイトという形で仕事が出来る。感謝するのは自分の方で――息苦しさに喉が塞がりかけるのを、山田は頓着しない様子で笑った。
「探偵役は俺だ。あんたは使われるだけでいい。――俺は、アンタを資料係として雇いたいんだ」
しりょうがかり。その単語だけが、横須賀の脳に単語として意味をなした。なぞった音が文字になり意味を示すような速度で、横須賀が顔を上げる。
「アンタみてーのに事務なんてもったいネェな。アホがさせることだ。俺は調べ物にかける時間を別に使いたい。必要ないと判断すれば頭から消していくものも多い。無駄を省くためにな。そういう諸々を、アンタが補佐してくれたら万々歳だ」
「ほさ」
ひとつ遅れて横須賀が復唱する。山田が大仰に頷いた。
「自分の家でもねーのに分類違うだけで覚えているような無駄な頭してんなら向いてんだろ。おそらくアンタには経験が足りねえが……そうだな、ワトスン程度にはしてやるよ」
「わとすん」
横須賀がまた復唱する。それが非常に愉快だったのか、山田は「はは、」と図書館故かそれとも元々そういう気質なのか、小さめな声で笑った。
「光栄に思っていいぜ、テメェはワトスンになれる。愚図のようなテメェを、この探偵様が使ってやるんだ」
声量は大きくない。それなのにその不遜で尊大な言葉は、強く横須賀の眼前に広げられた。実感はしない。出来るわけ無い。馬鹿にしたような物言いに怒るような気質を横須賀は持っていなかったし、困惑故に立ち去るには、横須賀は動機を持ち得なかった。
それどころか、横須賀はじっと山田を見ていた。自身が愚鈍であることを自覚する横須賀にとって、使ってやる、という言葉はあまりに甘露で、故に動けない。
「明日十九時、事務所に来い。どうせ暇だろ? 待ってるぜ、ワトスン」
結局のところ、答えは決まっていた。
だから。
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