破れた世界のアーカイブ
沙悟寺 綾太郎
プロローグ
「いい、ここで」
ガタンガタンと一本道を進む軍事車両の内側で、荘厳な軍服を身に纏った青年は呟いた。
窓の表面には、ぼさぼさに荒れた白い髪と何処か虚ろな瞳をした自身の顔が、外には一面
に背の高い雑草を生え揃えた大地が見えた。
「ですが、孤児院はまだ先ですよ?」
「ここからじゃ、あと数キロはあります」と将校は目を丸めて言う。
「いいから、車止めろ。それぐらいは歩いて行く」
「承りました」
エンジンの唸り声は次第に小さくなっていく。それに呼応するように速度も徐々に下がり始め、赤土の道を車は少し進んでから、脇に停止した。
アルは小さなサイドポーチだけ掴んで、助手席のドアを開く。同時に軍服の上から分厚い外套を羽織った。
「……冷えるな」
言うと、白い息が口からこぼれた。
初めて降り立った親友の故郷、アーリア共和国の西部には、浅く地面を覆い隠す程の雪が降っていた。
「世話になった」
「はっ! 大尉殿もお元気で」
運転席に座っていた将校はわざわざ運転席を降りて、青年アルを見送りに来た。そして、ピンと張った指先をこめかみに付け、敬礼する。
「元、だ。生憎、退役したのは知ってるだろ?」
「ええ。それでも貴方は我々にとっては、英雄なんですよ。アル大尉」
士官帽をかぶった男は言葉通り、残念そうに顏を歪める。
彼の瞳に写っていたのは、何処か暖かな光。優しく、アルを労わるような。
何を言えばいいのか分からなくなって、咄嗟に目を逸らした。
「……武運を祈る」
「ええ、大尉殿も」
だから、アルは言葉を置いて、逃げるように背を向けた。その口から漏れた息は真っ白に染まりながら、空へと消えていく。
一歩、また一歩と。踵の高いブーツで土を踏みつけた。足の裏には濡れた泥がへばり付くのが分かる。鼻には、冬の冷たい空気と枯れかかった草木の匂い。
「……」
アルは時折、足を止めて自身の足元へと目をやった。そして、決まって溜息を吐く。
「酷い戦争だったな、全く……最悪だ。はは!」
大火戦争。多くの人が死に、消え、欠けた史上最悪の戦争。
そして、そんな地獄で戦った者の多くは、年端もいかない少年少女だった。
理由は簡単、大人にはないものを生まれながらに持っていたから。
アルは自分の掌をじっと見た。そこに刻まれているのは、《龍翼》の紋様。
——特異烙印(アウェイク・コード)。
《特異》と言う名の超常的な能力を行使することが出来る証明にして、人と怪物を分ける一つの境界線。
未だに目を閉じれば、すぐに去来する、
ひたすらに続く塹壕、硝煙の匂い。死んでゆく人間の断末魔に慟哭。野営地の天蓋。目を覆いたくなるような変わり果てた友、部下。そして、自分を家族だと言ってくれた人。
それはどれだけ、時が経とうと、頭から離れることはないのだろう。
「は、はは……」
アルは自嘲的な薄ら笑いを打ち切って、手を外套のポケットに突っ込むと天を仰いだ。
「……」
全部が全部、無駄だった。結局戦争は誰も勝者を生まずに唐突に終わったから。
殺して、殺して、殺して……その先に何があったのか。
アルはやがて、力なく膝を折った。
そして。
「ふざけんなよッ!」
アルは怒号を叫び、燃え盛った怒りのまま、焦茶色の地面に拳を叩きつけた。
「なら! 何で戦わせた! 何故! 何人殺したと思ってる!」
何度も何度も、アルは怒りのままに地へと拳を振るった。
「何人……死んだと、思ってんだよ」
アルは痛み、疼く胸を腫れて痺れた右手で押さえつける。
しばらくそうしたのちに、アルはようやく歩き始めた。
どれだけ嘆こうが、過去は変わらない。
十数分、ゆらゆらと風に靡く枯れ葉のように歩くと、小さな町に行き当たった。
アルの目に写ったのは、一本の道の両脇に添えられるようにして立った戸建ての数々。
活気がない。立ち並んだ民家や商店はもちろん、酒場すら。
「……カウボーイがいるって話は嘘だったのかよ」
アルはもぬけの殻となった建築物を無視して、街の奥へと足を進めた。
そこにあったのは、小さな町よりも幾ばくも小さい孤児院。その周りを囲った垣根は管理が行き届いておらず、大きく枝先を伸ばしていた。
アルは老朽化した柵を開いて、腐りかけた木製のドアの前に立つ。
「御免下さい」
数度扉を叩いてみても、中からの返答はない。
「誰か、いないのか?」
ドアノブを回して、軽く押してみると、扉は容易に開いた。中に入ってみると、埃を被った内装から、長いこと人の手が加えられていないことが、すぐに見て取れた。
「留守、にしては不用心すぎるな。いや……関係ないか。こんな木板一枚で守れるものなんてたかが知れてる」
独り言に再び、乾いた笑いが交じった。
誰もいない。受付は愚か、その奥からも人の気配すら感じ取れない。
アルが中を見回して、人がいないことを確認し終え、踵を返したその時だった。
「誰?」
部屋の奥からは、鈴の音のような少女の声がした。
振り返るとカウンターの奥にある扉のわずかに空いた隙間から、ひょっこりと少女が顔を出していた。年齢は恐らく五、六歳。その髪は美しい金の川ようで、肌は窓の外で揺れる雪ほどに白い。
すぐに分かった。この少女なのだと。
「は……はは。本当に天使みたいだ。他の大人は何処に?」
「……知らない。みんな、いっちゃった」
出来るだけ柔らかな声音で尋ねると、警戒心は多少薄れたようで、少女はドアを潜り、アルの前へと姿を現した。
その頬は酷く痩せこけていて、服も土汚れに汚れていた。
「……じゃあ、なんで君はここに?」
年端もいかない少女一人ここにいるのは、常識的に考えておかしなことだ。
「お兄ちゃんが、迎えに来るって言ってたから」
「……そうか」
アルは眉をひそめた。だとしても、普通置いて行きはしないだろう。全く、この世界にはろくな大人は居ないのか。
「君に渡したいものがある」
アルは外套の内ポケットに手を入れる。すぐに探していたものは手に当たって、冷たい感触が伝った。
「なに?」
「これ、だよ」
アルが取り出したのは、細いチェーンに繋がった一枚の認識票。他にも沢山付いていたはずなのに、ほとんどを遺族に渡してしまって、残ったのは、これだけだった。
「君の……お兄さんのものだ」
「お兄ちゃんの?」
怖がらせないように、ゆっくりと少女に近づく。屈んで、目線を合わせてから、その小さな掌に乗せる。
「俺のせい、なんだ。ごめん、本当にすまない」
謝罪を繰り返すアルを少女は何が何だか分からない様子で、見上げていた。けれど、何かを察したようにアルの頭に手を伸ばした。
細い、本当に触れれば折れてしまいそうなほどに細い腕、細い指。
「……おなか、空いたの?」
少女はアルの濁った瞳を、心配そうに仰ぐ。
「え?」
意味が全く分からなかった。正直、幼子と話すのもこれが初めてだったから、言葉の意図を読み取れない。
「おなかが空いて、辛くなったら、目から水が出るんだよ?」
「何を言って……」
少女に指されて、咄嗟にアルは頬を触れた。そこで初めて、自分の瞳から雫が流れ出ていたことに気が付いた。
「わたしもね、おなかが空いたら出るの」
辛いことなのに、「いっしょだね」と少女は笑った。
その笑顔は、泣きながら笑っているようで。
「──っ!」
アルの両腕は、勝手に少女の薄い体を抱きしめていた。
そんな資格はないはずなのに。彼女の兄を奪ったのに、守れなかったのに。
「一緒に……行こう。守るから、助けるから」
溢れる涙は、頬を伝って、少女の顔へと落ちていく。
「どこに、行くの?」
「そうだな。美味いもの、食べれるところがいいな」
「ん、わたしも食べたい」
アルは腕を解いて、少女の小さな手を優しく握った。
「俺は、アル。ただの……アルだ。君の名前を聞いてもいいか?」
「わたしは──フロイ・マクルーガー」
聞きたかった名前。守るべき名前。
まだ、死ねない。せめて、この少女が笑っていられるようになるまでは。
そう誓って握ったその小さな手は、力を込めれば、消えてしまいそうで、けれど、確かに暖かくて。
でも、いつからかその手も離してしまった。いや、離さざるを得なかった。
……泣きじゃくる彼女に何も言えずに。追い縋る彼女に何も出来ずに。
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