第5話 家庭教師ってなに?

 木曜日、早い朝食を済ますとトーマスは大学へ出かけた。マーラは自転車のバスケットに焼き過ぎたハムとベーコンのサンドイッチを紙に包んで放り込み、街へと出発した。

 今まで遠かったバス停までのなだらかな坂道を軽くブレーキをかけてのんきに下る。この瞬間が一番気持ちいいと毎回思った。少々冷たい風にも平気なようにすっぽりと頭巾をかぶり、ブドウ畑で作業する早出の人たちに挨拶がてら手を振った。

 農場には柑橘類の木々がたわわに実をつけて、収穫に追われていた。

 マーラの農場から町までのバス通りは、しばらく畑が続き、ポツンポツンと民家が建ち始める。バスの時間を気にせずに町までこられるようになったマーラは、『自転車革命』に心を躍らせて、時折遠回りしてあちこちの畑で収穫される冬の果物を見て回った。覚えたてのラジオから流れていた曲をちょっと外れた調子で口ずさんでずんずんペダルを漕いで行く。

 そして、忘れないように牛乳屋さんに寄って、占い館に到着した。

「マーラ今日は教会の帰りに行って欲しいところがあるの。マーキュリーには了解を取ってあるからね。断らないで行っておくれよ」

 マークおばさんから頼まれたのは大きなお屋敷の坊ちゃんの家庭教師、と言うのは口実で話し相手、遊び相手をして欲しいと言う事だった。

『私にそんな仕事?今は学校にだって行っていないのに』マーラは不審に思ったが、おばさんの了解を得ているという。家庭教師は無理でも、話し相手くらいなら出来るかしら…

 学校に行けない坊やのお世話係に、週に一度町へ下りる度に顔を出して欲しいというお願いだった。自転車を押しながら、『この街に住んでいるのなら学校だって直ぐそこだし行けばいいのに贅沢言ってる』と思うマーラだった。

「マークおばさんから聞いて、お伺いしました」

 レンガ塀の端にしつらえた小さな木戸、背伸びして小さな呼び鈴を鳴らすと、中から小太りのまっ白いエプロンを胸高に締めたメイドが、マーラの声が聞こえなかったのか胡散臭そうな顔をこっちに向けて来た。

「何の用だね。ここはお前の様な子供の来るお屋敷じゃないよ」

「あ、あの、私、マークおばさんに頼まれて、お邪魔しました」

 丁寧にスカートを広げ、腰を屈めて挨拶した。

「マークに、じゃ、前に頼んでおいた坊ちゃんのお相手。へ~、まだ子供じゃないかマークも何を考えてるんだか、う〜ん。ま、こっちへ」

 13歳にしては小柄なマーラが太っちょのメイドの後ろを付いてちょこちょこ歩く。『この子に坊ちゃんのお世話係が務まるのかね』そう思いながら面倒くさそうに案内するサムだった。

 長い廊下を歩いて案内されたこの部屋に次も自力で来れるだろうか、真っ直ぐの道だったとは言え心細い。お屋敷の中に入ってからの距離がマーラを不安にさせた。でも、左手に広がる芝生、縁を彩る何色もの鶏頭の花、背の低いプリムラが一斉に花ひらいて印象的だった。

「さ、ここだよ。坊ちゃんが中に居ればの話だけれど…」

「開けていいんですか?」

「どうぞ、坊ちゃんが気に入れば採用。気に入らなかったらわざわざ来てもらったのに残念ってところだね」

 採用不採用の決定権は坊ちゃんとやらにあるらしい。あの口調なら、もう何人も不採用になっているのか…マーラは我儘なお坊ちゃんを想像して肩をすくめた。

 扉を開けると驚くほど大きな目を開けたラリーがそこに居た。

「初めましてマーラと申します」

「年はいくつ」

「は?」

 自分より小さな子供に歳を聞かれるとは思わなかった。

「13になります。山の上の農場で働いているの」

「僕より4つ年上、そうは見えないね」

「恐れ入ります」

 マーラはマーキュリーおばさんからの頼み事と合点してはいたけれど、突然頼まれたこの仕事を引き受けなくてもいいやと、不合格だとしても誰も困らない。半分やる気を感じない態度だった。

「君の得意は何?」

 そう聞かれてちょっと困った。得意な物なんて無い。考えた事も無かった。

「お使いかしら、毎週木曜日この町にお使いに来るわ。その他の日は農場の仕事。農場で働く人たちの食事のお世話や洗濯をしています」

「お使い。僕はやった事が無い。楽しいの?」

 珍しく話がはずんでいるこの状況をサムは訝しんだ。ひょっとしてこの娘は気に入られたんだろうか、だとしたらそれは一大事だ。マークにお礼を言わなくてはならない。日頃偉そうに色々干渉してくるマークに一矢報いようと、マークに頼んだらどんな人を紹介してくれるのか、どうせ上手くいかないと笑ってやるつもりだったのに、これじゃあ反対に頭を下げなくてはならない。それは計算違いだと悔しい気持ちになった。

「坊ちゃん、どうします、今回も不合格ですか?こんな小娘じゃあ何の役にも立たないでしょ」

 と、話半ばで横やりを入れた。

 坊ちゃんは嫌な顔をして、反対に意固地になって、この小娘を採用しようと心に決めた。

「僕は良いと思うよ。家庭教師なんていなくても勉強はできるからね。遊び相手と言うか、僕の知らない事を知っている人なら心から歓迎するよ」

「まあ!そうですか。じゃあ、コホン、これからここに通って頂いてもらえるって事で良いのかしら?」

 今度はマーラに圧力をかけて返事をさせまいとした。

「だって引き受けようと此処に来たんでしょ。大丈夫だよね」

「坊ちゃんの事は坊ちゃんとお呼びするんでしょうか」

 何か一つぐらい聞いておこうとマーラが声を挙げた。

「僕はローレンス。正式名はね。父さんはラリーと呼ぶ。君もラリーと呼んで」

「ラリー様と?」

「ラリーで良い。様も坊ちゃんも同じだろ」

 尖った口元がちょっと笑える。ラリーは坊ちゃん扱いされるのが嫌らしく、そこは譲らずそう言った。

「では、ラリー宜しくお願い致します」

「門まで送るよ」

 ラリーはベッドから足を振り子の様に弾みをつけて立ち上がるとそう言った。

「まあ!わざわざ送るだなんて、そんなにお気に召されて…」

 サムはとても驚いて、そしてその分不機嫌だった。日頃から生意気なローレンスが新しい世界を手に入れて余計に扱い辛くなりそうで、これ以上味方を増やしたくは無かった。しかもマークの紹介した小娘。でも悟られまいと落ち着き払った態度で、

「じゃ来週からということでよろしくお願いしますわ」

 と、マーラを支配下に置いた気分でそう言った。

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