第19話 ギフト
色付いた木々の葉が散り、しばらくすると昼間の気温が一気に下がった。
山から吹き下ろす風が冷たさを増し、刃のように鋭くなると冬の到来だ。
近いうちに雪が降り始めるな――。
山の麓で十年も暮らせば子どもでもわかることだ。
思えば、その年はおかしな年だった。
春先から長雨が続き、夏なのにひんやりとした毎日で、秋になっても穀物はなかなか実らなかった。
家の食物庫はがらんとしていて半分ほどしか貯蔵がなかった。
「夏まで持つかどうか……」
夜中に両親が嘆いているのを聞き、子ども心になんとかしなければと、雪がちらつく中、早朝から山に入って食料を探していた。
取りこぼしている木の実とか、動物が食べ残した肉片とか、何か両親が喜びそうなものを。
普段なら足を踏み入れない斜面を上っている時だった。
落ち葉に隠れていた木の根っこに足をとられ、斜面を転がり落ちてしまった。
気がつくと甘い匂いに包まれていた。
慌てて体を起こすと頭がズキズキと痛んだ。
痛むところに手を当ててみたが、血はついていない。
甘い匂いを放つものを見つけなければ。食料ならば転がり落ちた甲斐があるというものだ。
足で積もった落ち葉を払いながら探したが、辺りには命を失ったものしかなかった。
枯れ葉。枯れ草。育たず朽ちてしまった若木。
違う。違う。違う。
この甘美な匂いを放つものは、こんなありふれたものとは違って並外れて美しいものに違いない。
どれくらい探しただろう。
ついに、それを見つけた。
黒や茶色でごちゃ混ぜに塗られた世界にすっと立ち、凛とした花を咲かせている。
この時期に咲く花があるなんて――。
見たこともない深紅の花びらの真ん中に、オレンジ色の蜜のようなものが溜まっている。
鼻を近づけると、あまりの匂いの強さにむせてしまった。
特別なものを見つけた――。
これで腹が膨れる訳じゃない。高く売れるかもわからない。それでも――。
この花を見つけるために、ここまで落ちたのだと――落とされたのだと確信した。
どうやったら蜜をこぼさずに持って帰られるだろう。
一番大切なコートを脱ぐと、ためらいもなく地面に敷き、その上に根っこごと深くくり抜いた花を乗せ、辺りの土を足した。
そうして花びらを潰さないように軽く丸めた。
寒さなど感じなかった。高揚感が全身に熱気を与えてくれた。
斜面はほとんど腹ばいの状態で登った。
腕を伸ばして花をそっと上にやる。それから体を持ち上げる。ずり落ちては這い上がり、ずり落ちては這い上がる。
そうやって、やっとのことで元の山道まで辿り着くと、土まみれの状態で家に帰った。
両親は喜んではくれなかった。
それよりも、一枚しかない綿入りのコートを泥だらけにして、穴まで開けたことをひどく叱った。
花だけは捨てずに植えることを許された。
ひび割れたボウルに植えて、日のあたる野菜干し場の隅に置き、毎日飽きもせず眺め続けた。
一週間経っても、二週間経っても、花は枯れなかった。
最初におかしくなったのは父親だ。ぶつぶつとうわ言を言うようになり働かなくなった。
母親もぼんやりすることが多くなり、食事の支度も掃除も洗濯もしなくなった。
それでも「ご飯作って」と言うと食事を作り、「服を洗って」と言うと洗濯をするのだった。
叱っていた十歳の子どもの言いなりになるなんて。
家の中は陰鬱で退屈なので雪でも雨でも外で遊んだ。
ある日、腹がすいて家に帰ると両親が倒れていた。
母親の背中には斧が刺さっており、父親は目を見開いたまま息絶えていた。
ああ、もうここにはいられない――。
二人の死体を前に思ったのはそれだけだった。
それでも、あの花だけは絶対に手放せない――そう思い、ボウルごと抱えると山を下りた。
雪解けが始まった町は、春の訪れを祝う人で溢れかえっていた。
町が歓喜にわく中、身寄りのない孤児として、ひっそりと教会に身を寄せることができた。
そこにはいじめる子も体罰を与える大人もいたが、いつの間にか言うことを聞いてくれるようになっていた。
それで分かった。
蜜には不思議な作用があったのだ。おそらく自分だけが耐性を持っている。
そして、蜜の匂いを嗅いだ者に、自分が影響を与えることができるのだ。
やはり、あの時の滑落は偶然ではなかった。
ギフトを授かったのだ!
花さえあれば怖いものなどない。
住みたい家を見つけると、蜜に浸した布切れを持参し大家と会った。
何度か通っているうちに、「家賃は結構です。さあどうぞ。これが鍵です」と通された。
生活に必要なものも、「お代は結構です」と言われる。
寒さに震えることも腹をすかせることもなくなった。
そんな生活が数年続いた頃、男が訪ねてきた。
男には初めから全部バレていた。ずっと見張っていたという。
なぜ他人を操れるのか聞かれて正直に答えた。なぜだか男には隠し事ができない気がした。
「お前に仕事をやろう」
そして王宮に連れて行かれた。王の御前で跪くと、その男に紹介された。
「薬師のモリガンです」
結局、王も父親と同じ末路を辿った。
内戦が起きると、男に言われるがまま隣国へ逃れた。
あの花は、国を渡ろうと、日の光が届かない地下にあろうと、今もなお相変わらず美しく咲き誇っている。
ドアをノックする音で、モーリンは現実に引き戻された。
「モーリン様。お客様でございます」
書斎でうたた寝をして久しぶりに夢を見たらしい。
もう何年も思い出すことなどなかったのに。
客間では間者の一人がソファーにふんぞりかえっていた。
勝手に所望したらしく、赤ワインのボトルを左手に持ち、ぞんざいにグラスに注いでいる。
モーリンが入ってきても気にすることなくグラスを口に運ぶ。
「よお、旦那」
マクシミリアンをつけさせた者だ。
「金なら渡したはずだが」
「そんなんじゃねーよ。仕事の話さ。なんかねーのかよ。もう暇で暇で。酒を飲むくらいしかすることがなくってさ」
ならば酒を飲んでいればよかろうに。
「じきに働いてもらうことになる。今のうちに好きなだけ飲んでおけ」
「そうかい? んじゃま、そうさせてもらうとするか。ああ、これ開けちまったから、いいよな?」
男がボトルを掴んで軽く振った。
「ああ、好きにしろ」
「そんじゃ、ま、近いうちに」
男はモーリンの機嫌が悪くなる前に高級ワインを持って去った。
それにしても、内乱が終わればあの男が王になるものだとばかり思っていた。
まさか宰相の地位に甘んじるとは。
モーリンはカーテンを引き、窓をいっぱいに押し開けた。
客の顔も会話も漏れぬよう、客間は昼間でも常にカーテンを閉めている。
窓のそばに立っていると、風が遠慮がちにモーリンの頬を撫でていった。
雲雀がこれみよがしに空へ上っていく。春がそこまで来ている匂いがする。
ふと空を見上げて思う。自分は何を待っているのだろう。
何か、誰かを待っていたような気がするが……。
時が経ちすぎて、もうわからなくなってしまった。
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