第1幕 サーカス団の裏方
第1部 ヒト耳少女と奴隷の青年
プロローグ
「舞台なんてただの娯楽だ」
父の言葉だった。
彼はその発言から数日のうちに、旅芸人一座の座長に就任した。
「単なる見世物に世界の闇を払うだけの力は無い。だが絶望をして立ち上がれなくなった時、前を向く力くらいならば……我々のショーを見に来たヒトに与えられるかもしれない」
彼の言葉は芸事を軽んじるものでもその無力さを嘆くものでもなく、その尊さを説くものだった。
鱗のついた大きな掌。人のそれとは違う手でそっと頭を撫でてくれた父の横顔を、チロルは何年経っても忘れられる事が出来ないでいる。
あれはまだチロルの掌が紅葉のように小さかった頃。とある夜の事だった。
何が原因だったか定かでは無い。何となく寝付けず、その夜チロルはいつまでもベッドの上でモゾモゾと居心地が悪そうに体を動かしていた。
眠れない幼子をを見兼ねて父……ギムは、チロルを外套でぐるぐる巻きにすると外に連れ出してくれたのだ。いつもなら「早く寝ろ」と窘められる深い夜に許された外出に、小さな胸が踊った事を今でもはっきりと思い出せる。
しかし外に出た途端、頬を撫でる冷たい風。驚いた彼女は父にひしっとしがみついた。
「ご覧、チロル」
ふるふると縮こまっていたチロルは、父の声で顔を上げる。そこに広がっていたのは見た事もないなにか。
「……これは?」
「旅支度だよ」
「サーカスの?」
「ああ、そうだ」
父がサーカス団を立ち上げる事は知っていたけれど、正直これっぽっちも実感が湧かなかった。実際に旅に必要な資材を目にして初めて、ああこの人は本気で旅芸人なんてものを始めるつもりだったんだなと幼心ながらに感心したものだ。
それくらい、賑やかで華やかなサーカスのイメージと、仏頂面の父が頭の中で結びつかなかったのだ。
「舞台なんて、ただの娯楽だ」
そこに来て出たのが、先程の言葉だ。
これから一座を率いていく事になる父は、歌や芝居ではヒトを救えないと断言した。彼が見ているのは甘い幻想ではなく、どうしようもない現実の筈。
それなのに父は、どうしようもなく大きな夢を、 胸に秘めているように思えてならなかった。
「サーカス……」
真新しい傷一つないテントとトレーラー。規模はけして大きく無い。一つ一つが小さく、数も少なかった。
しかし宵闇の中、ランプの灯りに照らされたそれに、父はきっと偉大なる夢を見出していたのだろう。娘の
そんな彼の顔を、チロルは腕の中から見上げていた。夢を見る父の瞳は、とても美しかった。
「馬鹿げた理想だと笑うものもいるだろうな」
世界なんて救えなくても、観客に少しでも力を与えることが出来たら。そうやって感動の輪を繰り返して行ったその後でいつか、世界に平和が訪れるかもしれない。舞台なんかじゃ、けして救われてくれない現実を見た上で、父が描いた理想図。希望的観測だけれど、素敵な話。
「ボクも手伝ったげるよ」
チロルの目から見ても父は別に歌や芝居に興味があるようには思えなかった。厳格な父親がどうしてサーカス団なんてものを立ち上げたのか。その真意は今になっても分からないままだ。
ただあの日あの夜、父の語る夢物語に自分自身が共感したのは紛れもない事実だった。世界が救えないとか、絶望から立ち上がる為の力だとか細かいところまで理解した訳では無い。
それでも夢のある舞台で誰かを助けたいと言う父の思いを受けて、幼い少女が自分の未来を、人生を定めた事に変わりはなかった。
「ボクの歌で、世界を平和にしてあげる。だってボクも、今日からサーカスの団員だからな」
少女が語った夢を、父は否定も肯定もしなかった。お前はショーには立てないよとも言われなかったけれど、舞台で歌う事を認めてもくれなかった。その意味を少女が知る事になるのはまだ先の話。
その夜、父はただ大きな手でぎゅっと、抱き締めてくれていれるだけだった。無知な彼女は父のヒトより少し低い体温を感じながら無邪気に微笑んでいた。
あれから十数年。
小さなテントと二台ぽっちのトレーラーで始めた旅芸人一座は、年を増す毎にその規模を成長させて行った。
団員が増え、それに伴いトレーラーの台数も増えて。気が付けば出来上がった大所帯の大家族。
マチからマチへ巡業を行い、この寂れた世界に束の間の感動をばら
一座の名前は、ビスティアサーカス団【シルクス】
夜の闇の中に咲く電飾の煌びやかな灯りは、まるで一座そのものを象徴しているようだ。
明るく元気に騒がしく。
無邪気で優雅に華やかに。
世界を救う事は出来なくても、観客に絶望から立ち上がる力くらいは与えられるだろう夢の
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