第6話 内なる無限のストーリー

「ところで」とクウは言った。「『空』から生まれるものは、目に見えるような具体的なモノだけではない。愛、正義、信仰、清純、情熱…。すべてのかたちにならないものもまた、『空』から生まれるのだ。時間と空間も『空』から生まれる。原因と結果の無限の連鎖もそうだ。『空』から生まれるものの集大成が『物語』である」

「『物語』って、『源氏物語』や『平家物語』のこと?」とミカは言った。

「まあ、文学作品も『物語』であることには違いない。しかし、私が今言いたいのは、もっと個人的な『物語』だ。例えば、ある一日のバス旅行もそうだし、ありふれた一日の朝から晩までの出来事もそうだ。お前の日々の暮らしのなかで、終わりと始まりのあるものはすべて『物語』であると言えよう。その『物語』で一番長いものは何だか分かるか?」

「それは、私の人生ってこと?」

「そのとおりだ、ミカ。それはお前自身の人生だ。誰かの『物語』ではない。お前はお前自身の『物語』のなかで生きているのだ。だから、お前は丁寧に生きなければならない」

「そうね」

 その後、しばらくの間、ミカはひとり考えた。

 ミカはこれまでの人生を思い返してみた。月並みな17年間の人生。これといった特技もなければ、可愛くもない(と、彼女が思っているだけだが)。親の言うとおりに学校と塾に通っているだけ。自分はこれまで一体何をしてきたのだろう、と彼女は思った。

「…私の人生なんて、そんなたいしたものじゃないよ、きっと」とミカは少し寂しそうに言った。

「たいしたものじゃない?どうしてそんなことをいうのだ」とクウはミカに言った。

「だって、私、そんなに可愛くないし、地味だし、ドンくさいし、歌が上手いとか、絵が上手いとか、そういう特技とかないし…。それにアイツは単に成績が良いのを鼻にかけていて生意気だって陰口をいう子もいる…」

「そのようなこと、お前がどう生きるかには関係がないことだ」

「ううん、私にとっては大問題だよ」とミカは表情をくもらせながら言った。

 気まずい空気がクウとミカの間を包んだ。

「そんなささいなことがどうして問題になるのだ?」とクウは強いまなざしでミカを見つめながら言った。

「ささいなことじゃないよ。私、あなたほど強くない…」

「それがどうしたというのだ、強さなど必要ない」

「それがどうしたって?あなたみたいに風来坊みたいに自由気ままに生きている猫に何が分かるというの!人間の世界はあなたが思っている以上に複雑なの!」とミカはクウをにらみながら言った。

「なぜ自分自身をおとしめるようなことを考えるのだ、愚か者め」

「愚か者って何よ!」

ミカは今にも泣きだしそうな潤んだ目をしていた。

しばしの沈黙。

そして、クウが口を開いた。

「他人の評価?そんなものはどうでもよい。ミカ、問題はお前が納得できる生き方ができているかどうかだ。お前自身の生き方は、誰かがこう生きるべきだ、と押し付けられるものではない。どう生きるかはお前自身がお前の責任で決めるしかないのだ。」

「…」

「さっき言って聞かせたように、お前はお前自身の宇宙を生きているのだ。大宇宙の片隅の、取るに足らない小さな砂粒のような地球という惑星で、80億人近い人間の一人として生きている?そんなものはお前という存在を『取るに足らない小さなもの』だとして矮小化するただのフィクションにすぎん。お前は決して『取るに足らない小さなもの』などではない。お前はお前自身の宇宙の主なのだ」

「クウ…」

クウはミカが冷静さを取り戻すのを待って続けた。

「それだけではない。ミカ、この前、未来が無限に枝分かれしているという話をしているのを覚えているだろうか?」

「うん」

「その無限パターンの分岐を一つにまとめたものが、お前の今の人生とも言える」

「そうね」

「ところで、前の人生、その前の人生、…遠い過去の人生、あるいは、次の人生、その次の人生、…通り未来の人生、というように、様々な人生がお前自身の内に無限にあるとしたら、お前はどう思うか?」

「えっ!?」と言って、ミカはにわかには信じられない、という顔をした。

「実はお前の宇宙には無限の人生があるのだ。そのなかには、石器時代に草原で生きていた人生もあるかもしれない。また、宇宙開拓時代のコロニーの中で生きていた人生もあるかもしれない。あるいは、中世ヨーロッパの王族として生きていた人生もあるかもしれない。そのような想像できるかぎりの様々な人生…。そのような様々な舞台で悪の限りを尽くしていたような人生もあれば、善行に生きていた人生もある。そのような人生が無限にあるのだ」

「それって、無限の生まれ変わりの人生があるってこと」

「そのとおりだ。その無限の人生を、心のあり方にしたがって選び続けることが、輪廻転生に他ならない」

「なんだか信じられない…」

「すぐには信じられないだろうがこれが真実なのだ。この無限の人生こそが、お前の真の姿なのだ」

「これが私の本当の姿!?」

「生きとし生けるものはそれぞれ別の宇宙を生きていると私は言ったが、もっと正確に言おう。無限の人生の集まり、すなわち宇宙自体がお前自身なのだ」

「私自身が宇宙…」

ミカは言葉を失った。

「だから、もう、自分自身が取るに足らない小さな者だと言うな」とクウは言った。

そしてミカは何も言わず小さくうなずいた。

「今夜はすっかり遅くなってしまった。もう休みなさい」とミカを気遣うようにクウは言った。

 時計はすでに午前3時を回っていた。


 この夜の会話の後、彼女の心の有り様は確実に変わってしまったと言えよう。事実、今までそれなりに楽しんでいた学校での友人たちとの会話が、彼女にとっては、ひどくつまらないものに思えるようになっていた。

それは受験勉強についても同じだった。当然、模擬試験の結果は下降の一途をたどった。しかし、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。成績について親や教師に叱責されたときでも、彼女の気持ちはまったく動じなくなっていた。それは、何か救われているような不思議な安心感がいつも彼女を包んでいたからであった。

ミカとクウとの師弟がやるような問答は、この後しばらくなかった。ミカは究極の答えを聞いてしまったように思っていたので、クウにこの手のことをそれ以上聞くことはなかったし、クウも自ら進んで教えることもなかった。クウとミカのやり取りと言えば、ミカが他愛のない日々の出来事を話して、クウがまるで彼女の寡黙な祖父であるかのように「うん、そうか。よい一日であったな」と目を細めて答えることぐらいであった。

そのようにして、夏が過ぎ、秋が過ぎていった。

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