第6話 餓鬼の如くに
陽は傾き、山の向こうは茜空。
秋嶺山荘の駐車場では、銀色のクラウンの中が煙で真っ白になっている。そこに近付いた人影はケンタ。クラウンの窓をコンコンと叩けば、窓が降りてモワッと煙が吹き出した。これにはさしものケンタも顔をしかめていると、車の中でノートPCを叩きながら、タバコをくわえた五十坂が顔を向ける。
「どうした。何かあったか」
ケンタは苦笑しながら、よく冷えた缶のウーロン茶を五十坂に手渡した。
「八科からの伝言です。いま式村さんがオーナーと面談してるんで、それが終わったら五十坂さんと面会したいとオーナーが言ってるそうです」
「なるほど、そいじゃ晩飯食いながらになるかな」
五十坂はウーロン茶の飲み口を開けると、タバコを口の右端にくわえたままで、左端から流し込んだ。それをケンタは呆れた顔で見つめている。
「そうなるかも知れませんね……いまそれ、取材の原稿書いてるんですか?」
「気になるか」
「ええ、まあ少し」
「コイツは原稿じゃない。企画書だよ」
「企画書、ですか」
不思議そうな顔をしているケンタに、五十坂はニヤリと笑って見せた。
「待ってれば雑誌からフリーライターに原稿の依頼が来るなんてのは昔の話でな、いまはこっちから企画書を提出して記事を載っけてもらわにゃならんのさ。そのためにはまず自腹で取材して、概要を書いて、それと企画書を併せて雑誌に売り込むんだ。こんなネタ使いませんか、ってよ」
「あれ、じゃあこの取材は」
「おう、どこの雑誌に載るか、そもそも載せてくれる雑誌があるかどうかすら現段階では未定だ。でもとにかく書かにゃ始まらんだろ」
「へえ、フリーライターって大変なんだ」
「大変だよ。人生失敗したって、ときどき思うしな」
その言い草がツボに入ったのだろうか、ケンタはプッと噴き出した。それを見て、五十坂も笑みを浮かべる。
「なあ、ケンタっつったっけ」
「はあ」
「つまんねえこと聞いていいか」
「何でしょう」
「昼間っから見ててさ、おまえどう考えてもここにいるようなヤツには思えないんだが、何でここにいるんだ」
するとケンタは「ああまたか」という風にため息をついた。
「よく言われますよ。病気や障碍があるようには見えないって」
「確かに見えないな」
「僕は学習障碍なんです。文字を読んだり書いたり覚えたりするのが難しくて」
五十坂は一瞬ポカンとした顔を見せたが、すぐに納得したようにうなずいた。
「つまり本が読めない訳だ」
「目を通すのは無理ですね。ただ、いまは読み上げソフトもイロイロありますから、PC経由で結構な数の本を聞いてますよ。もっとも企画書は書けませんけど」
「学習障碍に大地のエネルギーだの免疫力だの関係あるのか」
このストレートな物言いにはケンタも笑うしかない。
「ある訳ないですよ。でも親はそんなの考えないですから。とは言え、親の経済力から離れて一人で生きて行けないのは事実ですし、逆らっても、って感じです」
分相応という言葉を理解していると言いたいのだろうか。少し疲れたような横顔には諦念が見える。なまじ親より利口な子どもは幸福に嫌われるのかも知れない。
五十坂はノートPCを閉じてクラウンのドアを開け、車外に出て伸びをする。そしてウーロン茶を一気に飲み干し、タバコを大きく吸い込んだ。
「とりあえず腰が痛い。山荘の中で待つことにするか」
口から煙を吐き出すと、くわえていたタバコをクラウンの灰皿に突っ込んで、ドアを閉めて歩き出す。夕焼けを背に、長い影を従えて。
興奮気味に日和義人がまくし立てた。
「この地域の村には、人口比からは考えられないほど多数の百歳以上の高齢者がいましてね、数年後には百五歳を超える村民が何人も出て来ることは確実なのです」
「おお、素晴らしい」
目を輝かせる式村憲明に、日和義人は言葉を続けた。
「また数年後にはこの地域の百歳以上の高齢者の人数が倍増する可能性さえあるとの専門家の意見もあるのです」
「それでは、紗良に何らかの良い影響がある可能性も十分考えられますね」
冷静に考えれば、式村憲明の言葉はムチャクチャだ。この近隣に百歳以上の老人の数が多かったとしても、いったいそれが十三歳の女の子の健康に何の影響を与えるというのか。
もし百歩譲って何らかの謎のエネルギーがここにあるのだとしても、その謎のエネルギーが自分たちに都合の良い反応だけを起こしてくれるはずなどある訳がない。
なのに日和義人はそれを否定しようともしない。
「我々が何も言わなくとも、行政の公的記録が、この地に眠る大地のパワーを疑いようのない事実であると認めざるを得ない、そんな日が来るのはもう火を見るより明らかです。そうなって、ここに日本中から大地のパワーを求める人々が集まって大混雑になったとしても、先行者利益というものは常にあるのです。後から来た者たちの存在が、我々のバリューを上昇させることになります」
「先行者利益、ですか」
隣に座る紗良がどんな顔をしているのかなど見向きもせず、憲明は日和義人の言葉に心を奪われていた。先行者利益、紗良がその恩恵に浴することができるのだと。
「もちろん利益と言っても、経済的利益などではありません。その最たるモノは心身の健康です。我々はそんな先行者利益を手にし、次の段階に進むことでしょう」
「次の段階、とおっしゃいますと」
「私はここで育った子どもたちの中から、この地に集まる人々を導き、いずれ政治の世界に飛び込む者が出てくるだろうと思っています。いえ、確信しています」
その言葉に憲明は紗良の未来を思い描いた。いまはただひたすらに病と闘い、疲れ果て痩せ細っている娘が、いつか多くの人々の前に指導者として立つ姿を。
感動は快感となり憲明の全身を駆け巡る。間違っていなかった。私は、私たちの選択は正しかったのだ!
人間は自分の見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞こうとする。それが世の常であることくらい式村憲明にもわかってはいたのだが、いま自分がそうなっている現実に気付くのは、なかなか至難の業と言えた。
玄関から山荘の中に入れば、漂って来る夕食の匂い。鼻をひくつかせている五十坂に、ケンタは言った。
「今日の夕食はロールキャベツですよ」
すると五十坂は不審げに眉を寄せる。
「カレー味のか?」
カレーの匂いは、大抵の食べ物のそれに混ざっても自身の存在を主張する。しかしケンタは首を振った。
「それはジローのカレーですね」
「ジローのカレー」
「ええ、ジローは何故だかわからないんですが、カレーライスしか食べないんです。だからメニューに関わらずジローだけは必ずカレーです」
「そんなの不公平だとか文句出ないもんなのか」
「最初は出ましたよ。でも毎日毎食全部カレーですからね、そうなるとさすがに誰も羨ましがらなくて」
まあ、いかに子どもがカレー好きだとは言え、そこまで行くとな。五十坂が納得したそのとき、奥の応接室から式村沙良を連れた八科祥子が姿を現した。
「ああ、ちょうど良かった。ケンタちょっと来てくれる」
「あ、はい」
ケンタが駆け寄れば、式村沙良は背負ったリュックの肩ひもを両手でギュッと握りしめて一歩下がった。伏せた目、頑なな口元。自分の運命が誰か他人に決められることに、懸命に抗おうとしているのだ。しかしその背を八科祥子の手が押した。逃がさないと言わんばかりに。
「沙良さんに食事を出してあげて。細かいお世話は夕里江さんと一緒にユメナに任せるといいわ」
「わかりました。じゃ、行こうか」
ケンタが促したものの、沙良の足は前に出ない。しばし流れた沈黙を破ったのは、大理石の床をコツコツと近付いてきた足音。
「飯は食っといた方がいいぞ」
五十坂の声に沙良は視線を上げる。
「世の中何があるかわからんからな、食えるときに食っておけ。その後のことは後で考えりゃいい」
見つめる沙良の目には非難の色が浮かんでいたが、五十坂はこれといって気にならないようだ。やがて沙良はゆっくりと歩き出す。ケンタはホッとした顔を見せてその隣を歩いた。
二人の背を見ながら、八科祥子は小さな声でつぶやく。
「ご協力感謝します」
「ここでゴタゴタされるのは、こっちも困るんでね」
五十坂も小さな声で返した。と、そこに。四つ並んだ健康道場の部屋の向かって右端、一番玄関側の部屋からメガネをかけた髪の長い少女が顔を出した。
「あっ、ケンタ」
「どうかした?」
「ジローがどっか行っちゃったきり戻って来ないの」
「またか。まあそのうち戻って来るよ」
そんな会話が聞こえてきて、気になったのだろう八科祥子が歩み寄った。
「ユメナ、ジローが戻って来ないっていつから?」
「あ、八科先生。たぶん三、四時間くらい姿が見えないと思います」
ユメナと呼ばれたメガネの少女は、いささか焦っているかに見える。興味が湧いたのか、五十坂までが近付いてきた。
「そんなに。周りは捜したの」
八科祥子の言葉は、傍から聞いている分にはさして厳しい言い方には思えないのだが、ユメナは震え上がらんばかりに身を固くしている。
「さ、捜しました! 食事の時間になる前に、山荘の中も、周りも。でも」
でも見つからなかった、そう言いたかったであろうユメナの言葉を遮ったのは、受付のドアが開く音。外側に開いたそこから出てきたのは、ジローの姿。
「何で……受付も探したのに」
そんな声などまるで聞こえないかのように、ジローはスタスタとユメナの横を通って部屋に入って行き、カレーライスの置かれたテーブルの席についた。しかしその双眸は虚空を見つめたまま。皿の横のスプーンを手に取ることもなく、ただじっと座っている。ケンタとユメナは顔を見合わせて、八科祥子はため息をついた。
「あ、あの、ジローのカレー、温め直しましょうか」
おずおずとたずねるユメナに、八科祥子は首を振る。
「そこまでしなくてもいいでしょう。ユメナ、あなたは夕里江さんと沙良さんにベッドを割り当ててあげて」
そう言うと八科祥子は、沈黙を続けるジローに声をかけた。
「ジロー、食べなさい」
その瞬間、まるで何かのスイッチが入ったかの如く、爆発的な勢いでスプーンをつかんだジローは、地獄の餓鬼もかくやといった具合に、あるいは数日振りに餌にありついた野犬ででもあるかのように、大慌てでカレーライスを口にかき込んだ。周囲の子供たちはすでに飛沫を恐れて距離を置いている。それを見る限り毎日、いや毎食のことなのだろう。これには五十坂も目を丸くする。
そして一分と経たないうちにジローは食事を終え、スプーンを汚れた皿に置くと再び虚空を呆然と見つめた。テーブルに積まれた冷たいおしぼりでジローの口の周りを拭き、裏返してテーブルに飛んだカレーを拭き取った八科祥子は、五十坂を振り返って「どう?」とばかりに微笑む。五十坂は苦笑し両手を挙げた。
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