第25話 助けて


 第二公演が終わって室内は盛り上がっていた。一部のお客さんが椅子から腰を上げて、役者への労いや称賛の言葉を口にする。


 私の周りにもお客さんのバリケードができている。


「そのサーベルかっこいいね!」

「衣装どんな素材使ってるの?」


 表情を微笑に努めて、波濤はとうのごとく押し寄せる質問に一つ一つ答える。


 次の上映時間にはまだ余裕があるものの、王子を演じるのも体力を消費する。質問攻めに遭っていては休憩時間の意味がない。


「みなさーん。次の上演がありますのでお早めに退室をお願いしまーす!」


 誘導係が声を張り上げるけど効果は見られない。周りが動かないから自分もいいやと、そんな意識が働いている。


 こういう時敦がいたら、なんて考える。物知りな敦なら、こんな状況でも見事に人混みを解散させてみせるのだろう。


 私には無理だ。他のクラスメイトにもできない。風に翻弄される落ち葉のごとく熱気にあおられるしかない。


 業を煮やした誘導班が一人ずつ声掛けを始めた。肩を軽く叩き、客を振り向かせて言葉をかける。


「きゃっ⁉」


 不意な肩叩きで女性客が悲鳴を上げた。反射的に揺れ動いた拍子に隣の客にぶつかる。よそ見をしていた男性の体勢が崩れて前の客にぶつかる。

 まるでドミノ倒しのよう。女性が前傾姿勢になり、手にしているコップから液体が飛び出る。


 まずい。


 私がそう思った時には、冷たい水が衣装を濡らしていた。


「秋村さん!」


 教室の空気が凍り付いた。


 一般客の女性が頭を下げる。


「ご、ごめんなさい! この人に急に押されて止まれなくて!」


「はぁ⁉ 俺のせいだっていうのかよ!」

「だってそうでしょ⁉」

「違う! その前にこいつが――」


 責任の押し付け合い。数日前に室内で見た光景だ。


 私は空気を吸って肺を膨らませる。


 場の収め方は一度目の当たりにした。私に謝る理由はないけど、ちょっとアレンジを加えれば。


「冷たくて気持ちいいーっ!」


 顔に笑みを貼り付けて喜びを表現した。


 想像とは違う反応だったのだろう、周囲がきょとんとしてまぶたを上げ下げする。喧噪を止めて視線を集めることに成功した。


 すかさず事態の収拾にかかる。


「急に押されてびっくりしちゃったんですよね? 私は大丈夫ですから気にしないでください」

「え、ええ」


 誘導班にアイコンタクトを送る。


 班長の女子がハッとして声を張り上げた。あらためて廊下への誘導が始まる。


 一度やらかしたこともあって客が物言わず廊下にはける。排水口に吸い込まれる水のようだ。


 瞬く間に室内ががらんとした。


「ううっ、冷たっ。誰かタオル貸してくれない?」

「私持ってる。ちょっと待ってて」

「男子、雑巾! 床拭いて!」

「あいよっ!」


 私はタオルを受け取り、衣装に付着した水を叩くようにして吸い取ろうと試みる。


「秋村さん、どんな感じ?」

「冷たい。内側まで濡れちゃってるね」


 床に視線を落とすと、水に混じって形のある塊が転がっている。夏だけに飲み物には氷が入っている。冷たくて当然だ。


「ただの水でよかったな。コーヒーとかだったら色付いて大変だったぞ」

「何言ってんの。このままじゃ秋村さん風邪ひいちゃうじゃない」

「んなこと言ったって、衣装に変わりなんかないぞ?」

「ドライヤー! 誰かドライヤー持ってない?」

「生徒が持ってくんのは校則で禁止されてんだろ」


 ドライヤーは電気を食う。生徒が各自で持参すると最悪ブレーカーが落ちる。放任気味なこの学校もその辺りはしっかりと規制している。


「どっかの部室に一つくらいあんでしょ」

「水泳部ならあるかも。知り合いに借りられないか聞いてくる」

「ちょっと待って。その衣装って乾かしていい素材なの? 王子の衣装が縮んだら台無しだよ?」

「じゃあどうすんだよ? 自然乾燥なんて次の講演に絶対間に合わないぞ」


 騒めきが止まらない。意見を出しても反論が飛ぶ。


 二進にっち三進さっちもいかない硬直状態に焦れたのか、論ずるクラスメイトの声色に熱が混じった。口論に発展するのはまずい。以降の進行にも影響が出かねない。


 私は口元を引き結ぶ。


「午後の公演は中止しよう」


 クラスメイトの視線が殺到した。指をぎゅっと丸めて言葉を続ける。


「仮に衣装が乾いても、平静に登場人物にはなり切れないよ。一度時間を置いて仕切り直させてくれないかな?」


 明日も公演がある。浮足立ったまま開演して失敗するよりは、明日の上演に備えて心を落ち着けた方が賢明だ。


 今日残っていた上演は一回。被害は最小限に抑えられる。


「まぁ、秋村さんがそう言うなら」

「じゃ俺文実に伝えて来るよ」


 男子が伝達を引き受けて廊下に消えた。


 騒ぎが沈静化したことに内心ほっと胸をなで下ろして、私はカーテンに仕切られた着替えスペースに踏み入る。


 冷たい衣装を肌身から離し、乾いたワイシャツに袖を通した。ブレザーとスカートも身にまとい、衣装の内側をタオルで拭いてからハンガーに吊り下げる。


 男子が戻った。中止の許可が出た報告を受けて、クラスメイト全員で後片付けに取り掛かる。


 明日も公演が控えている。黒いカーテンや飾りはそのままに、ほうきや塵取りを持って掃除に参加する。


 劇は中止。午後の予定は丸々空いた。


 各々自由時間を得て教室を後にした。劇が中止になったのは残念だけど、思ったよりも心はふわっと軽い。


 公演のプレッシャーから解放されたことはある。何よりも自由時間を得られたことが嬉しい。


 実行委員は二日目も役者の仕事に拘束される。正規の自由時間なんてほとんどない。せっかくの祭りだし、私だってはしゃぎたかった。突如舞い降りた自由は渡りに船だ。


 さてどこに行こうかな。


 時間がもったいないし、美味しい物を食べながら考えよう。確かクレープの屋台があった。苺、オレンジ、メロン。フルーツと生クリームたっぷりのものを食べたいな。敦と会ったら、久しぶりに二人で歩くのもいいかもしれない。


 視線を散らしつつ足を前に出す。前から来る人の流れを視界の隅へと流す。


 人影は見当たらない。時が流れゆく焦燥に突き動かされて足が速まり、歩行スピードに比例して苛立ちが募る。


 まったく。普段は探さなくても目に付くのに、こういう時ばっかり視界に入らないんだから。


「おーい、秋村さーん!」


 足を止めて振り返る。


 明るい髪色、頭一つ高い身長、子供のように晴れやかな笑顔。見知った男子が床を踏み鳴らして駆け寄ってきた。


「劇の中止聞いたよ。大変だったね」

「うん。まあ事故だから仕方ないよ」


 正直時間が空いて嬉しい、なんて口にできる雰囲気じゃない。私よりも浮谷さんの方ががっかりしているように見えて申し訳なさすら覚えた。


「これから時間あるよね? 一緒に回らない?」

「え……」


 言葉に詰まった。


 二つ返事を予想していたのか、浮谷さんの笑みがこわばった。私自身、二つ返事をしなかった自分に驚きを隠せない。


 空気が鉛のごとく重量を増す。


 とっさに二の句を紡いで口角を上げた。


「私、これから昼食なんだよね」

「な、なーんだ、じゃ一緒に食べよう。俺クレープ食べたかったんだよー」


 逃げ場がない。


 悟って、そんなことを考えた自分に戸惑った。敦に見られたくない、一瞬でもそう考えた自分がいた。


 私たちの関係は冷め切っている。だから一度は関係を終わらせようと考えた。文化祭の実行委員になって別れ話は保留したけど、二度も浮谷さんとデートをした。


 そこまでしたのに、今さらになって心変わりしたって言うの? 敦を手放そうと思って惜しくなったってこと? そんな勝手な話はない。それこそ敦と浮谷さんに不義理だ。


「じゃあ……一緒に回ろうか」

「ああ!」


 笑顔の浮谷さんと歩みを再会した。靴裏が廊下の床を鳴らすたびにそわそわして視線をさまよわせる。


 まるで足に拘束具を付けられたような感覚だ。視線が増えるにつれて、軽かったはずの足が鉄と化したように重くなる。


「あれ、あの子街で見かけた子じゃね?」

「ほんとだ。ここの学校だったのか」


 背筋がぞくっとした。


 バッと振り向くと、人混みの向こう側に見覚えのある二人組が立っていた。


 忘れもしない。言葉を尽くしても執拗しつように付きまとってきた、敦の自己犠牲で逃れることができたナンパ師の二人組だ。


 二人が足を前に出す。


 首筋を舐められたような嫌悪感がせり上がった。


「浮谷さんごめん!」

「え? な、なに⁉」


 生理的に無理だった。一刻も早く距離を取ろうと踵を返す。


 後方からペースの早い靴音が迫る。軽薄な制止の声を無視して人混みを縫うように疾走する。


 思ったように走れないけど、それは相手も同じだ。校舎は私のホームグラウンド。地形の理はこっちにある。


 相手は体格のいい男性。ただ逃げるだけじゃ追いつかれる。隠れられる場所といえば中庭だろうか。


 樹木と土の匂い漂う空間に踏み入った。中庭の歩行スペースを駆け抜けて、土の地面に靴跡を刻んで茂みに身を潜める。


「はぁ、はぁ……」


 渦巻く不安が喉を圧迫する。息苦しさが抑えたい呼吸音をさらに荒くさせる。


 今日この校舎に足を運んだ以上、ナンパ師の目的は文化祭を楽しむことのはず。私を見失っても校舎内を歩き回るのは目に見えている。私が文化祭を楽しもうとすれば行く先で出くわす可能性は大いにある。 


「どうしてこうなるのっ!」


 静かに歯噛みする。


 敦との関係が冷えてから色々と上手くいかない。胸の内はもやもやするし、勉強もいまいち身が入らない。


 浮谷さんと出かけて少しは気分転換できたかと思えば、今度はアクシデントで劇の公演を取り上げられた。ラッキーと思って文化祭を楽しもうとしたらこのザマだ。


 何をしてもくじかれる。悔しさで涙が出そうになる。


「っ」


 靴音に鼓膜を刺激されて体が跳ねた。その拍子に体と茂みが接触し、枝葉の擦れた音が中庭の空気を伝播する。大した音じゃないはずなのに、その物音は落下したシンバルのごとく騒々しい。


 茂みは生き物じゃない。枝葉が擦れたからには何かが隠れている。茂みの向こう側に隠れ潜むものを確信するには十分な要素だ。


 靴音が迫る。左胸の奧から伝わる鼓動が早まる。


 ここは中庭の隅。人の気配はない。ナンパ師に追い詰められたら助けを求めることも叶わない。


 追いつかれる前に飛び出したところで、次は逃げ切れる保証もない。体格のいい二人だ、腕をつかまれたら振り払うことはできないだろう。


 体が微かに震える。腕を握りしめても生理的な震えは止められない。靴音が鳴り響くたびに叫び出したい衝動に駆られる。


「助けて、敦……っ」


 口から出たのは、私が裏切った恋人の名前だった。


 そのことを恥じた瞬間、茂みの向こう側から大きな人影が躍り出る。

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