第54話


「私の仲間になってくれたのも、都合の良い隠れみのにするためだったんですか?」

「園が怪しげなことをしているな、って疑っていたのは本当だよ。でも、俺には関係ないし、隠蔽体質なら好都合さ。でも確かに、感づいた人が他にいたってのは、ちょっと嬉しかったけどね」

「過去の事故や事件を調べてくれたのに。危機感を覚えなかったんですか。この園では常識じゃ考えられないことが起きているんですよ」

「ああ、黒い影がどうのこうのって話ね。俺には見えないんだから、信じるってのがまず無理なのよ。それなのに、ちょいと調べものをしただけで好感度爆上がりだ。さすがにチョロすぎるんじゃないかな」

「黒い影は本当にいるの。さっきもあなたの周りにいたんです。今はどこかに行っちゃったけど……」


 迫りくる裸体から目を離さず、階下へと慎重に下りていく。桃華と金剛君は前向きでずんずん先へ進んでいく。鈴音との距離は開いていき、踊り場を曲がったところで姿が消える。


「大体、今時幽霊なんて流行らないと思うよ。時代は“人間が怖い”さ。この園みたいに、訳の分からない宗教にハマっちゃうとか。それにほら、いただろ。プール中に不法侵入してきた不審者が。ああいう現実的な奴の方がよっぽど怖い」

「その不審者が、黒い影に殺されたんですって!」

「はいはい。スピリチュアルな妄想はやめにしよう。それに、いつも暗い話題ばかりしていたから、その歳まで彼氏の一人もいなかったんじゃないのかな?」

「どうして断言できるのよ」

「一目瞭然でしょ。俺といると、いつも挙動不審だったし」

「……うぐ」


 最後の最後で痛いところを突かれたが、どうにかここまで漕ぎ着けた。

 踊り場に足をつき、流し目で一階の状況を探る。桃華と金剛は既に下駄げた箱が並ぶ区域に至っており、時折こちらを心配そうに見つめている。

 好機。

 二人が一階にいて、澄法が階段を下り切っていない今こそ、千載一遇の大チャンスだ。


「桃華ちゃん、金剛君を連れて走って!」


 階下へと、のどが張り裂けんばかりに叫ぶ。

 桃華は突然の金切り声に一瞬怯むも、すぐに意図を察してくれたらしい。金剛の手を引き玄関へと急行する。

 その様子を見届けることなく、鈴音は裸族と化した澄法へと向き直り、引き金を引いた。


「うわっ」


 消臭スプレーを連射で噴霧する。端正な顔へと一切の容赦なくぶっかける。良い子も悪い子も真似まねしてはいけない使用方法だ。

 想定外の反撃に、澄法は咄嗟とっさに両腕を交差させ、防御姿勢をとる。が、時すでに遅し。エアロゾルを目の粘膜で受け止めた痛み故か、藻掻もがき苦しみ階段から転げ落ちていく。

 三段飛ばしで階段を駆け下り、痛みに悶絶する澄法の隣を素通りする。が、後ろ髪引かれて、彼の前へ。未だ勃ち続ける股間を、ぶら下がった丸出しの弱点を、全身全霊で蹴り上げる。声にならぬ悲鳴。ぐにゃりと得も言われぬ感触が足の先に伝わる。生温かい不快感が突き抜ける。だが、これでしばらくは動けまい。


「早く外へ!」


 靴に履き替える時間はない。桃華と金剛に追いついてからも、脇目もふらずにひた走る。

 玄関にはすぐ着いた。

 エプロンのポケットからカードキーを取り出す。

 玄関の引き戸を開けるにはこれが必須だ。外からの場合は暗証番号も必要だが、中からの場合は機械にタッチするだけでよい。毎日の出勤退勤で習慣になっていることだ。職員の誰もが知っているだろう。


 リーダーにかざすと電子音が鳴り、開錠されたと告げてくれる。取っ手を掴むと勢いよく開け放ち、二人を優先して園舎外へと逃がす。

 あとは閉めるだけだ。一度引き戸が閉まれば自動的に鍵がかかり、再度開錠するにはカードキーが必要になる。

 だが、澄法は全裸だ。当然持っていない。予備は職員室に保管されているが、取りに行けば大幅のタイムロス。その間に二人を連れて塩井台を脱出し、周辺の民家に駆け込む。最後に通報すればゲームセットだ。


 という、即興で考えた甘い計画は、もろくも一瞬で瓦解がかいする。

 ガツンと、引き戸に硬い手応え。閉まらない。隙間がそれ以上縮まらない。

 澄法の厳つい手が、閉鎖を阻止しようと挟まっていた。


「逃がさねぇよ」


 引き戸の隙間から血走った目が覗き込む。瞬間、稲光がまたたいて、彼の彫深い相貌そうぼうに影を落とした。遅れて雷鳴が轟いた。


「こ、来ないで」

「嫌だね、この根暗陰鬱糞女が」


 力及ばず戸は開け放たれ、園舎より裸体が這い出てくる。

 視界を奪って金的も食らわせたのに。

 どうしてもう動けるの。男性の急所のはずなのに。

 偶然にも当たりどころがよかったのか。それとも、非力故にろくな負傷にならなかったか。  

 とにかく、彼の強靭きょうじんさを甘く見ていた。

 その場しのぎの作戦では、鍛え抜かれた性犯罪者には敵わないのだ。


「うぐっ」


 丸太のように太い腕が伸び、鈴音の細い首が掴まれた。爪が食い込み、指で気道が圧迫される。途端に息が詰まり、苦悶にあえいでしまう。

 大きく包み込むような掌が。頭を優しく撫でてくれた掌が。今は、息の根を止めようと、血も涙もない悪鬼と化している。

 殺される。

 このままでは、間違いなく殺されてしまう。

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