第16話


「遅れてすみませんっ! 仕事が長引いてしまって……」


 時計の短針が七を示してからしばらくして。

 汗だくになり肩で息をしながら、母親のうららが駆け込んできた。登園時とは打って変わって、真っ青な作業服を纏っている。化粧も崩れてドロドロだ。身支度もそこそこに大急ぎでお迎えに来たらしい。


「ママ、おかえりー」

「……ん」


 桃華は勢いよく抱きつき、金剛は静かに手を握る。衝撃でうららはふらつくも、バランスを崩す寸前で踏ん張り、我が子の愛を受け止めていた。顔色は決して良いとは言えない。一度でも倒れたらそのままになりそうな面持ちだ。げっそりとしている。


「田口さん、大丈夫ですか?」

「ええ、なんとか」


 全然そうには見えない。心身共に疲労困憊なのは間違いないだろう。

 日々つづられる連絡帳、その内容と筆跡からも滲み出ている。ひょろりとした力の抜けた文字と、三日に一回の頻度で書かれている育児相談。追い詰められているんじゃないか、と彼女を案じてしまう。

 以前から「金剛がずっと無口で言葉を覚えているか心配だ」という旨の相談はあった。それに加えて、最近は桃華についての記述も増えた。疲れによるせいか、きいろ組とあい組を混同しているのかもしれない。「桃華に元気がない」「悩み事があるのかもしれない」とのことで、園とは大違いの報告に驚いた。だがむしろ、悩み事を抱え込んでいるのはうららの方ではないか。

 朝から晩まで仕事漬けで、その上育児不安が積み重なれば体に堪えるだろう。身近な相談相手がいればよいのだが、夫は海外へ単身赴任中であり、連絡しようにも時間が合わないらしい。実質孤軍奮闘状態、俗に言うワンオペ育児だ。核家族化の弊害かもしれない。


「仕事を長引かせてしまい申し訳ありません」


 うららは平謝りするばかりだ。繰り返しぺこぺこと頭を下げている。

 時間厳守は社会人の鉄則だろう。遅刻続きなのはうららの落ち度ではある。しかし、疲れ切った姿を前にしては責められない。子持ちの労働者を酷使する企業側にも問題はあるだろうし、子育て支援に乏しい社会そのものも原因だろう。あまりにも根が深く、保育教諭一人ではどうしようもない。


「それでは、明日もよろしくお願いします」


 心の重荷を減らせるように、と言葉をかけようとしたが、適切なものが浮かばなかった。まごついている間に、田口家は帰路についてしまう。

 ただの新人風情に子育て家庭を支える助言ができるだろうか。仮に何か言えたとして、薄っぺらで毒にも薬にもならなそうだ。あるいは逆鱗に触れたり、とどめを刺してしまったりするかもしれない。沈黙は金、なのだろうか。

 窓の外を見遣ると、夜のとばりが静寂な鈍色にびいろを下ろしていた。雨は未だ降り続いている。





 六月中旬。

 梅雨は未だ明けぬも、上空には久しぶりの晴れ間が広がった。貴重な青空、絶好の保育日和だ。このチャンスを逃す手はない。

 今日の予定は園外散歩だ。文字通り園の敷地外へとお出かけする。計画では近所の公園まで歩いて行き、目いっぱい体を動かして遊ぶ。雨天の閉塞感から解放されて、子ども達の満足度はうなぎ登りで急上昇確実。帰って給食を食べてしまえば、疲れと満腹感でぐっすりお昼寝、熟睡で深い夢の中。起床時間前に目覚める子も少なくなるはずだ。保育者側も落ち着いて仕事に取り組める。いいことずくめだ。全ては散歩の成功にかかっている。


「公園に行きたい子はいるかなーっ?」


 と、声をかければ大はしゃぎ。予想通りの反応だ。外で遊べる、という期待感をひしひしと感じる。

 靴を履くよう伝えると、多くの子が自力でやり遂げている。普段は人任せにしたりどこかへ行ったりしていたのに。散歩が楽しみでやる気に充ち満ちているのだろう。靴の左右が間違っているのはご愛嬌あいきょうか。やんわりと教えて直すよう促す。

 とはいえ、元気過ぎるのも考え物だ。勢い余って事故が起きないか、という危惧きぐが頭の片隅にこびりついている。

 そこで登場するのが誘導ロープだ。一本の太いロープから、ムカデの足のように輪っかが幾つもついている。子ども達はその一つひとつを持って整列する。散歩中は輪っかから手を離さずに歩く、という決まりを徹底。集団行動を体で覚えて、事故に巻き込まれるリスクを軽減するのだ。ただし、多動な特性故に決まりを守れない子の場合、ゼロから一歳児向けの散歩カートに乗ってもらうのだが。


「みんな輪っかドーナツは持ったかな? お散歩に行けそうかな?」


 子ども達を縦二列に並ばせて、それぞれ輪っかをちゃんと握っているか確認する。鈴音は先導役として一番前に立ち、誘導ロープの先端を引く。最前列にいるのは金剛だ。クラスで最も落ち着いているため選ばれた。心なしか、いつもより表情が柔らかい。彼も外に出られるのが嬉しいようだ。それだけでも外出の甲斐がある。


「それじゃあ散歩に出発しまーす」


 ゆっくり、ゆっくりと。二歳児の歩行速度に合わせて園舎を出る。園庭から見送ってくれる他クラスの子ども達に手を振り返し、駐車場のアスファルトを踏みしめていく。

 腕時計を見ると時刻は午前十時前。予定通りの滑り出しだ。行き帰りに約十五分かかるとしても、公園で三十分近く遊べる計算だ。給食の準備にも余裕があるだろう。

 ふと見上げると、雲一つない抜けるような青空だ。平和を絵に描いたような天気だが気は抜けない。一寸先は闇、薄氷を踏む緊張感だ。

 願うは、想定外の事態が発生しないこと。

 何事もなく散歩を終えられるよう、内心「神様、仏様」と必死に祈るしかない。

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