「麻生忍」について

「なるほど……」


 軽妙にキーボードの上を指を踊らせ、事細かに如月が話す一語一句を記録した。


「長々とすみません」


 自身の喉の渇きに気付いたのだろう。如月はバツが悪そうに頭を掻く。各々に設けられた虚偽の記憶は、過去類を見ない行数となってノートパソコンの画面を占領し、如月が仕立てた「殺人事件」は興味深くも、成功するとはとても思わなかった。


「折を見て、此方からお電話させていただきます。料金は……」


 事件事故、軽重の異なる秘密事の一助を生業とする以上、散開を果たすまで生々しい話し合いは尽きず、「本日はご足労いただき、ありがとうございました。お客様のご希望に誠心誠意を込め、臨ませて頂く所存でございます」と腰を折り曲げ、深々と頭を下げれば、本日の業務は無事遂行された。心身を捧げて向き合わなければ成立しない依頼者が持ち込む案件は、相応の期間と労力が欠かせず、仕事を終えれば吐いた気炎の数に応じて休暇に入る。ありとあらゆる期待に答えてきた私の経験則からすると、如月が求めてやまない状況の作成、それを見届ける過程の配分を加味した結果、それはそれは長い休暇となることが予想され、生半可な気持ちで挑めば痩せ細った枝の如く折られてしまうだろう。勁草に比肩する強かさを拵え、苦渋を飲むことも吝かではないと胸を張る気概は、決して強がりや虚飾ではない。私は喜んで如月の依頼をこなすつもりである。


 “麻生忍”年齢は二十二歳。如月とは古くから付き合いがあるものの、長らく連絡も取り合っておらず、同窓会を契機に再び交流ができたようだ。月曜日から金曜日の午前中はスーパーのレジ打ちに精を出し、夕方頃になると業務を終えた麻生がスーパーの勝手口から出てくる。交際中の異性と思しき男が、決まって車で乗り付け、疲れた顔をする麻生を乗せてその日の予定に合わせて東西南北を目指す。交際は順調とは言い難く、麻生は常に倦怠感を纏わせる。男と会話を交わす際は常に携帯電話の画面に目を落とし、心ここに在らずと言った具合に相槌を打つ。どちらか一方が交際の解消を言い出せば、途端に他人として振る舞う準備があるように見え、もはや関係は破綻しているといって差し支えなかった。それでも、「別れ話」を頑なに避け、共有する時間を惰眠に変えてまで関係を維持するのは、学び舎で結ばれる人間関係が如何に儚いものかを知ったからである。


 社会に出てから形成される他人との結び付きとは、打算や利己的な計算の上に成り立ち、利害の一致をひたむきに目指す。理屈を抜きにした感情の赴くままに奇譚ない言葉を口に出来る相手は肉親を含んでも少なく、自己の形成が未熟なうちに作る「友人」は、長い人生に於いてなかなかに貴重な存在なのだ。だからこそ、同等の気持ちを確かめ合った関係を麻生はおいそれと切り捨てられず、だらだらと維持し続けてしまう。


「はぁ」


 スーパーへ向かう道中の信号機に足を止められたことへの不満は、アパートを出てから四つ目の嘆息として吐かれた。もはやそれは麻生の悪癖であり、軽微な変化をひたすら嫌悪し、眉間に不満が吹き溜まる。私は麻生の様子を先回りして窺っており、曲がり角にて虎視眈々とその瞬間を待っていた。


「カツ、カツ」


 ヒールを履いてレジ打ちに向かう心得とは、男が迎えにくることを見越した麻生なりのエチケットであった。それが災いし、死角から飛び出してくる私との衝突に呆気なく尻持ちをついて、蛇蝎の如く睨んでくる。


「すみません」


 立ち上がる際の補助になると思い、私は右手を差し出した。だが麻生は、取り付く島もなく叩いてどかし、自力で立ち上がるのを目下の目標に両手をアスファルトの地面についた。ヒールを真っ直ぐに直立させると腰をやおら持ち上げて、産まれたばかりの仔牛さながらに足腰を確立させていく。ショルダーバッグを肩に掛け直しつつ、麻生は服の汚れを払う。私が眼中に入ることすら忌々しいのだろう。歩き出しからすれ違うまで、麻生は一瞥もせずに舌を打ち、勤務時間に間に合うように早足でこの場を去った。

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