MARCHはすべりどめ

なしごれん

MARCHはすべりどめ

第1話

「勉強勉強ってお前は言うけどさぁ、そんなに勉強して何になるって言うんだよ」



辻村賢二は太眉をグイッと上にあげ、退屈そうに講義のテキストを眺める市瀬宏太に言った。


「決まってんだろぉ。一橋大学に入学するためだ。俺はな、ここらの連中みたいに夏から本気出すって言って、無様に志望校を落とすような馬鹿とは違うからな」


「そりゃそうだけど、まだ新学期が始まって一か月しか経ってないんだぜぇ?そりゃあ浪人生だから世間の目は厳しいけど、だからってあんまり走りすぎると、ストレスがどんどん溜まっていつか爆発する。たまにの息抜きは大事だ」


賢二はそう言って、新しく開店したカラオケのチラシを突き出した。


「ここに来る前に貰ったんだよ。関内から五分くらい歩いたところにある『カラオケ王子』って店が、オープン記念で部屋代を無料にしているんだ。ドリンクは飲み放題で、六百円はかかるけど、それでも二時間居たって、五時間居たって料金は変わらないわけだから、他の店よりも大分良心的だぜ」


予鈴のチャイムが鳴った。周りの受講生たちがゾロゾロと自分の席に座り始めたのを見て、賢二は宏太の机にチラシを置いていくと、いそいそと教室から出て行った。


 五月初旬のここ天筑(あまつく)予備校横浜校では、パーマをかけた小太りの英語教師の闊達とした声が校舎に響いていた。市瀬宏太は思った。こんな中学生でもわかる英文法を、なぜ高校を卒業した俺たちが学ばなければならないのだろうか。

三人称単数なら動詞にsが付くだとか、助動詞の後には動詞が来るだとか、そんなことは皆知っているはずだろう。それに、得意げな顔でな初学の知識を並べる化粧の濃いこの女講師もそうなのだが、ここにいる連中はそのことについて、何一つ不平不満を漏らさないのはどういうわけなのか。宏太は持っていたシャープペンシルを机に叩きつけると、左手を上げた。


「どうしましたか?」


すぐに講師の声がする。宏太は席から立ち上がると込み上げた不満を押さえて

「今はどんな単元をなさっているのでしょうか?」

と自嘲気味に言った。


「第五文型です。あなた数学のテキストを出しているみたいだけど、今は英語の時間よ。早くプリントを机に出しなさい」


「第五文型って……いくら基礎が重要でも、さすがに五月にもなってこの単元は、いくらなんでも遅すぎますよ。大手の予備校ならもうとっくに終わらせて、英文読解に力を入れている時期ですよ。それとも僕たちが、まだ文型も碌に分からない初学者だと思って、わざとベースを遅くしているんですか?もしそうでないのなら、僕たちが大学に合格するために払った学費で、一般的な受験生なら誰でも知っているような常識を平気で教示する講義を行っていることになりますから、無知な学生を搾取していると捉えられてもおかしくないですよねぇ?これは受講者に対する一種の冒涜ですよ」


宏太は真っ赤な顔で直立している講師を横目に、教材をリュックサックに詰め込んだ。こんなことをするために、俺は予備校に入ったわけじゃないんだ。彼はそのまま教室を出ると、自習室のある二階へ続く階段を下った。


 彼はむしゃくしゃしていた。それは教室で、当たり前の知識を永遠に語り続ける無能な講師に対してではなく、この自分の、なんとも情けない現状のせいであったから、彼は猛然と迫りくる怒りを鎮めようと、自習室の前で大きく深呼吸をした。

俺はあんな奴らとは違うんだ。怠惰で情弱で、予備校にさえ入っていれば大学に合格できるなんて甘いこと考えているような奴らとはな。彼は呪文のように何度もそう心の中で呟いた。



 市瀬宏太は、つい二か月ほど前に高校を卒業した浪人生だった。彼は神奈川でも一二を争う公立の進学校に通っていて、インターハイ常連のバスケットボール部の主力として文武両道の学校生活を送っていたが、二年次の冬休み明けに体調を崩し、学校に行くことができなくなってしまったのだった。


医者からは軽い精神病だと言い渡されていたが、彼はそれから二か月後に学校を辞めた。どうにも足が動かないのだ。母親に学校に行くと言って玄関を出、その足で最寄り駅のホームまでなんとか上がるのだが、そこから電車に乗るまでの間に、彼は何度冷や汗をかき、意識の遠のくような悪寒と闘わなければならないのかわからなかった。


それきり、彼は電車に乗ることができなくなった。それどころか、人前に立つことも話すことも困難になり、ついに彼は自室に引きこもり、家から一歩も出ない生活を強いられたのだった。


 それから約半年間、彼は何もしなかった。高校は卒業してほしいと言う母の要望で通信課程に入り、一日の大半をベッドの上で過ごした。昼か夜かもわからない暗い部屋で目覚め見るともなしにインターネットを漁り、食べたいものがあれば母に告げ、眠たくなったらベッドに横になる。彼はそんな日々を過ごしていたのである。

しかし、市瀬宏太はそんな日々に退屈などしなかった。学校に通わず、毎日をニートのように家で過ごすようになった彼にしてみれば、大学進学などもうどうでもいいことで、高校を卒業してからは、フリーターのような生活を二三年続けて、最終的に工場にでも勤めようと考えていたのである。


彼はもう勉強などどうでもよかった。小学生の頃から物覚えがよく、クラスメイトや教師からは天才と呼ばれ、中学では三番より下になったことがない。そんな市瀬宏太が選んだ道は「無」だったのある。


彼は、人間は力を労さなくても、何とか生きていけることを知っていたのだ。それまでの彼の世界は、誰もが知る名門の大学に入り、一流の企業に就職することが当たり前で、その道を逸れた者はもれなく困難な生活が待ちわびているものだと思っていた。けれど実際は、働かなくとも国からお金は支給されるし、高卒で企業を上場させた者も数多くいる。競馬や競輪で一生の稼ぎを手にした者もいるし、株や投資で儲けた者もいるのだ。


そんな成功者の上辺だけの記事を読んでいるうちに、彼は何のために勉強をするのかわからなくなってきた。今まで俺がしてきたことは何だったのだろうか。学校に行って授業を受け、家に帰ってから課題をする、そしてまた次の日になれば、学校に行って授業を受ける。そんな日々を過ごして、俺たちは一体何になると言うのだろう。入学してから当たり前のようにしてきた勉強の本質とは何であろうか。彼はぼんやりと天井を見上げて考えた。


そもそも社会に必要な事と言うのは、大抵は礼儀や道徳、規律を守ることであって、学校で習う専門じみた科目というものは、それこそ学者や官僚になりたい奴らが学べばいいことであって、将来、会社勤めになるであろう大半の生徒には、もっとしなけらばならない重要な事があるのではないだろうか。


けれど彼には、その重要な何かと言うものが掴めなかった。それは至極曖昧で、普遍的で人間の根源的なものを含んだ、ある種経験を積まなければ理解できないようなものだと彼は考えたが、そこから先何をすればいいかと問われると、行き詰ってしまうのだった。


彼は深くため息をついて椅子に凭れた。こんな答えのない問題にわざわざ頭を浪費させるなんて無駄で無意味なことだ。彼はなんだか全てが煩わしくなって、ベッドに横になると目を瞑った。



 そんな彼の家に、保育園からの幼馴染、辻村賢二がやってきたのは、妙に涼しい夏の日のことだった。


賢二はどこから聞いてきたのか、宏太の状況を把握していて、もし大学に進学する気があるのなら、俺と一緒に一橋大学へ行かないかと誘ってきたのだった。


「俺はお前なんかよりもよっぽど馬鹿で、今まで勉強なんかやってこなかったけど、どうしても大学に行きたいんだよ」


驚いて目を丸くしている宏太に、彼は真剣な眼差しを向けてそう言ったのだ。

当時、賢二は工業高校の三年生で卒業後は就職を考えていたのだが、一学年下の彼女が進学を希望していると言うので、自分も大学に行きたいのだと熱い口調で語っていた。


「昨日、七月に受けた模試が返ってきたんだ。自信はあったんだけどE判定で、何が悪かったのか自分でもよくわからないんだ。お前高校やめて暇なんだろ?だったら俺に勉強のやり方を教えてくれよ」


父と母は仕事で家にいなかったから、宏太は冷蔵庫から麦茶を取り出すと、賢二の前に置かれたグラスにそれを注いだ。突然の来客だったためリビングのクーラーはついておらず、グラスにはすぐに結露が浮き始めていた。


「お前、一橋大学がどれくらいのレベルなのか、わかって言ってるのかぁ?」


「えぇっと……偏差値が七十で、東京にある文系の大学ってことは知ってる」


「その偏差値七十がどのくらいか、お前は理解しているか?」


宏太は大学に縁もゆかりもないであろう賢二の口から、国内最高峰の一橋大学の名が出たことに驚いて、初めは聞き間違えたのかと思った。けれど賢二は、一橋大学が東京にあること、そして文系に特化した大学であることを知っていたため、宏太は彼が冗談を言っているわけではなさそうだと踏んで、彼が大学というものをどこまで理解しているのか知りたくなったのだ。


偏差値について聞かれた賢二は、幾分か不思議そうな顔をして黙っていたが、やがて

「偏差値って……点数のことだろ?」

と朗らかな声で言った。


「俺がいま偏差値四十だから、あと三十点。点数を上げれば一橋大学に受かる見込みがあるって。そういうことなんだろぉ?」


宏太は呆れて言葉が出なかった。保育園から中学校までを共にし、同じバスケットボール部で汗を流した日々が脳裏によぎった。そうだ、賢二はこういうやつなんだ。明朗で能天気で馬鹿で、頭よりも体が先に動いてしまう。宏太は中二の時、赤点を取ったのにもかかわらず体育館にやってきて、「数学の点数をバスケで返します」と何食わぬ顔で顧問に言った賢二の顔が甦ってきて、宏太はひとり笑った。


「何がおかしいんだよ?」

賢二はいつまでも思い出し笑いをしている宏太にそう言って、カバンから筆記用具を出した。


「お前は俺が本気じゃないって思ってるかもしれないけど、俺はマジだぜ。一橋大学に行けるんなら俺はお前の言うことを何だって聞くさ。学校を休めって言うんなら休むし、お前が二十時間勉強しろって言うんなら、俺は今ここで二十時間やってやるさ」


宏太はまた声を出して笑った。こんなに笑ったのは何か月ぶりだろうと思った。それは今目の前で、とんでもなくまじめな双眸で宏太を見つめているこの辻村賢二という男の、なんとも懐かしい口調と雰囲気が、それまで家に引きこもりっぱなしだった彼の心身の隙間に無尽蔵に入ってきたからだったので、宏太はそんな自分の姿がたまらなく新鮮に思えた。

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