第4話 女の戦い
婚約破棄から、およそ半月。
王宮舞踏会に出席したアレクシアは、周囲の視線が自分に集まるのを感じた。
彼女をエスコートしている弟のアーヴィンが、不快そうに眉をひそめる。
(注目されるのは当然ね。わたくしは美しいもの)
アレクシアの女性らしい体のラインに沿った深い青のドレスに、星のように繊細にきらめく銀糸の刺繍。
耳と胸元を飾るダイヤモンドとサファイアのアクセサリーは一級品で、彼女の白い肌に美しく映えている。
口元にうっすらと引かれた紅は、少女から女性へと移り変わる時期の危うい色香を強調していた。
だが注目される理由が美しさではないことくらい、アレクシアにもわかっている。
第一王子との婚約解消。
その話はあっという間に社交界に広まった。
ミレーヌとの噂がすでに広まっていたので、クリストファー側が原因ということは皆にも容易に想像がついているが、こういう時に悪く言われるのはなぜか女性側。
アレクシアは「子爵令嬢に第一王子を奪われた侯爵令嬢」だ。
表立って嘲笑する者がいないのはブラッドフォード侯爵家に喧嘩を売れば損をするだけとわかっているためだが、それでも好奇や憐れみを含んだ視線とスキャンダラスな噂話に興じるささやき声が途切れることはない。
いくら美人でもあの性格じゃあな、という声が聞こえてきて、アーヴィンの眉間の皺はますます深くなった。
「黙らせてきましょうか」
弟の提案に、アレクシアは微笑した。
「あら、わたくしのことを気にかけてくれるの? 案外優しいところがあるじゃない」
「姉上を気遣ってのことではありません。我が侯爵家を侮る者たちが不快なだけです」
「ふふ、そういうことにしておくわ。でも放っておきなさいな。直接わたくしに何か言う勇気もないのに陰でヒソヒソと話すような小物は、相手にする必要はないもの」
声を抑えるでもなく、アレクシアが言う。
それを聞いて、周囲の数人が黙った。
「わたくしが悪いことをしたわけではないのだから、堂々としていなさい。怒る必要すらないわ」
そう言って、アレクシアは笑みを浮かべながら周囲を見回す。
さらに数人が黙った。
「性格が悪いのは否定しようがありませんが、そういうところは素直に尊敬できます」
「ふふ、かわいい弟ね」
曲が始まり、アーヴィンと一曲ダンスを踊る。
美しい姉弟の優雅なダンスに、周囲は感嘆のため息を漏らした。
金が力であるように、美しさもまた力。
美には人を惹きつけてやまない魔力がある。
人々を魅了する完璧なダンスを披露しながらも、アレクシアの心はまったく別のことに向いていた。
(さすがにクリストファー殿下はいらしていないわね。ミレーヌ嬢は……まあいてもいなくてもどちらでもいいわ。第二王子殿下は時々申し訳なさそうにこちらを見ているけど、わたくしがさらに好奇の的にならないよう、話しかけてくることはないでしょう)
一曲終わったところでアーヴィンとは別れ、壁際に引っ込んだ。
今や婚約者がいない身となった美しいアレクシアだが、第一王子の婚約者であったことや性格のきつさは皆の知るところで、ダンスに誘ってくる者もいない。
ブラッドフォード家とのつながりを求める家は多いが、王子の元婚約者に気軽に近づくことはできない。悪い意味で注目されるとわかっていてアレクシアに近づく勇気のある者はいなかった。
ましてや、アレクシアと同年代で爵位を継ぐ予定の男性は皆婚約者がいる。後を継がない貴族の次男や三男が気軽に話しかけられる相手でもなかった。
皆に遠巻きにされることに傷つくような性格ではないが、理不尽だとは感じている。
なぜ浮気をされた側がこのような扱いを受けるのか、と。
(浮気した殿下が悪いのであって、わたくしに非はないというのに)
ちいさくため息をついたその時、誰かが近づいてきて勝手に隣に陣取った。
「あら、アレクシア嬢ともあろうお方が壁の花ですか? お一人で寂しそうですね」
そう話しかけて来たのは、子爵令嬢ミレーヌ。
クリストファーが“愛している”女性だった。
周囲がチラチラとこちらを見ているのがわかる。
前を向いたままのアレクシアは、隣の女はさぞ勝ち誇った顔をしているのだろうなと思った。
「お気遣いありがとう」
それだけ言って、扇子を広げてぱたぱたと仰ぐ。
退屈だというサイン。
「私、アレクシア嬢に申し訳なくて……。でも誤解しないでほしいんです。私が殿下を誘惑したわけじゃなくて、殿下が私を好きになってしまっただけなんです」
「そう? でも申し訳なく思う必要はないわ。殿下とどうぞ末永くお幸せに」
「強がりですか? 私が殿下に愛されて、公爵夫人になるのが悔しくて仕方がないんでしょう?」
アレクシアが口元を扇子で隠し、笑みを浮かべる。
「結婚が人生の全てと考える女性なら、そう思うかもしれないわね。でもわたくしには自由に生きられるだけのお金と才覚があるの。生憎、どなたかと違って男に媚びる才能には恵まれなかったようだけど」
ようやくアレクシアがミレーヌに視線を向ける。
ミルクティーのような優しい色合いの髪に、くりくりとした愛らしい目元、小さな唇。
愛らしいながらも美しすぎないところが、よけいに庇護欲をかきたてるのだろうなとアレクシアは思った。
だが今のミレーヌの表情は愛らしさとはほど遠い。眉をひそめて口を引き結び、怒りをあらわにしている。
「あらあら、未来の公爵夫人ともあろうお方が、そのようにわかりやすい表情をしていてはだめよ。高い地位にはそれに相応しい品位が求められるの。頑張ってお勉強なさって?」
その公爵位もどうなるかわからないけれど、とは口に出さなかった。
王が決めた縁談を勝手に破談にし、その結果王家は魔石鉱山を手に入れられず、ブラッドフォード家と縁を結ぶことも向こう何代かは不可能になった。
それが原因で王と側室エレノーラ妃も不仲になりつつあるという。
第二王子と第三王子という正妃の息子がいる中で、側室の子であるクリストファーがそんな事態を招いておいてなお公爵という地位を授けられるかどうか。
(それは神……いえ王のみぞ知るというところかしら。いずれにしろ興味がないけれど)
ちいさく笑いを漏らすと、ミレーヌの顔がますます歪んだ。
「偉そうにしていられるのも今のうちです。私が公爵夫人、あなたがただの侯爵令嬢になったら、思い知らせて差し上げますから」
公爵夫人にそこまでの権力があると思っているのかしら、とアレクシアは笑みを深めた。
たしかに格は上になるし、社交界においては王族を除いて女性の中で最上位といっても過言ではない。侯爵令嬢としては頭を下げる立場となる。
だが名ばかり公爵の夫人に実権があるわけではなく、ブラッドフォード侯爵令嬢に対して好き勝手して許されるほどのものではない。
「その時を楽しみにしているわ、ミレーヌ嬢。ああ、そこまで身分や立場にこだわるのならば、子爵令嬢が侯爵令嬢に許可もなく一方的に話すのは無礼ではなくて? わたくしに話しかける許可は取ったかしら?」
ミレーヌの頬がかっと赤くなる。
「けれど才能と美しさにあふれ人間性にも優れたわたくしは、そのような些末なことにはこだわらないの。だからお気になさらないでね」
「……っ」
「そうそう、言い忘れていたけれど」
アレクシアはミレーヌに近づき、口元を扇子で隠したまま彼女の耳元で囁く。
「前歯にチェリーらしきものが挟まっていましてよ。ずっと」
「……!」
「こっそりと教えて差し上げるなんて、わたくしったらなんて優しいのかしら」
ミレーヌは顔を真っ赤にして、逃げるようにその場から立ち去った。
周囲からおお……という声がちらほらと聞こえる。
(殿下の浮気相手と元婚約者の女の戦いに興味津々というところかしら。くだらないわ)
第一王子をめぐる二人の女の直接対決の結果は、一目瞭然。
ここで「百年早いですわおほほほほ」とでも言えば野次馬はさらに満足するのだろうなと思った。
(とはいえ、殿下の愛という今や道端のゴミよりも価値がないものを基準として見れば、わたくしは敗者と思われているのでしょうね。自分にとってはどうでもいいことが、いつまでも影のようについて回るのは気に入らないわ)
王子を奪った女を直接やり込める、王子に振られた高慢令嬢。
皆がそう考えているのが手に取るようにわかる。
ますます縁談が遠ざかりそうだと思った。
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