なな  ずっと前からイェルカは、僕の唯一。この世の誰よりも、愛おしい人。


「なぁ、ハーディ」

「なんです兄上」

「本当に女性たちの間では、こんな小説が流行っているのか?」


 僕の机の上には、ハーディが寄越してきた、流行りの小説が何冊も積まれていた。


 その小説の内容はこうだ。


 王子と婚約している令嬢が、王子の浮気相手を虐めたという事実無根の罪で断罪され、婚約を破棄される。浮気相手の令嬢はしたり顔。

 そこに、他国の王子や弟王子なんかといった他の高貴な身分の男が現れ、婚約破棄された令嬢に求婚し、令嬢に罪がないことを明らかにして結ばれる。

 一方、元婚約者令嬢を無実の罪で断罪したバカ王子は、王家から勘当されたり王位継承権を奪われたりする。

 浮気相手の令嬢は、バカ王子に付いていくも哀れな最期を迎えたり、嫉妬に狂って王子の元婚約者令嬢を害そうとするも失敗して罰せられたりする。


 ――残念ながら、僕には、この話の面白さはよく分からなかった。


「アルフレート兄上は分かっていませんね。女性はね、親同士の決めた婚約なんかではなく、真実の愛で結ばれたいと思っているのです。イェルカ姉上だってきっとそうです」

「イェルカが……?」


 僕らは親同士の決めた婚約者という関係であるとは言え、相思相愛で幸せに暮らしている。

 ――が、イェルカも、やはりこの小説の令嬢のように、本当は『親の決めた婚約なんてッ!』と思っているのだろうか……。


「そうです。ですから、ちょっとやってみましょうよ。これ」

「やってみる?」

「流行りの小説の流れで、イェルカ姉上に真実の愛の求婚をすれば良いのです。ちょうど王太子交替の発表がある父上の誕生祭の日が良いではありませんか。兄上がバカ王子とヒーロー王子の一人二役をやって!」

「……ちょっと無理があるのでは」


 瞳をキラキラと輝かせる我が弟は、しょっちゅう僕のことをからかってくる。

 情けないことに騙されやすい僕は、しばしばハーディに騙されて、恥ずかしいことによく泣かされている。

 だから今回も何か裏があると思ったのだが……。


「あ、無理なら俺がヒーロー王子やりますね。イェルカ姉上のことは頂きます」

「は? ふざけるな。イェルカは僕のだ」

「いやぁ、イェルカ姉上って本当にいい体してますよね。俺も一回くらい――」

「ハーディ、いい加減にしろ。イェルカはな、今、身重の――」

「……へっ?」

「……」


 どうやら口を滑らせてしまったようだ。ハーディに言うとからかわれそうで面倒だから、今まで伏せておいたのに……。


「兄上、今なんと?」


 ここまで来たら、どうせ誤魔化しても問い詰められるのだ。からかわれることは覚悟の上で、おとなしく言ってしまうのが良いだろう。


「……イェルカは、僕との子を身籠っている。僕でさえ控えているのに、お前なんかが下手なことをしたら、子に危険が及ぶだろう」


 何せ色欲魔王。ハーディはものすごく激しい男らしいのだ。

 そもそもイェルカに手を出すなんていつだろうと許せないが、今は特に体を大事にしなければならない時期である。


 ハーディはわざとらしく口元に手を当て、瞳をうるっと潤ませた。


「兄上ったら、いつの間に……! え、ちょっと初夜の話聞かせてくださいよ」

「嫌だ、断る」

「二回目以降の話でも良いですよ」

「二回目以降なんてない。一夜しか――」

「一夜でできたんですか!? さすが兄上。僕に似て強い種をお持ちのようで」

「なんで僕が弟に似ていることになっているんだ」

「ええ、おめでとうございます兄上。まあそういうわけですので、兄上は小説でお勉強でもして、イェルカ姉上へのサプライズプロポーズに備えてください。もうすぐパパになる者同士、今まで以上に仲良くしましょう! では失礼します!」

「はあ……」


 自分のペースでずんずん突き進むところのある弟は、スキップをしながら部屋を出ていった。


 さて、イェルカへのプロポーズか……。


 本当はイェルカの次の誕生日に改めて婚約指輪をプレゼントするつもりだったのだが、どうしたものか――と考えていると、廊下から「きゃあっ!」と愛しい人の叫び声が聞こえた。


「イェルカ!?」


 何かあったのかと慌てて部屋を飛び出すと、そこにはイェルカとハーディがいた。


「あら、アルフレート殿下っ! 今日も可愛いですね、大好きです!」


 イェルカは、ぱぁっと花が咲くような笑顔を見せると、軽い足取りでこちらに駆け寄ってぎゅっと僕の腕に抱きついてきた。


 たわわな膨らみが、むぎゅっと二の腕に押しつけられる。


「イェルカ、叫び声が聞こえた気がしたのだが……」

「ああ、そうでした。アルフレート殿下、ハーディ殿下ったら酷いんですのよ!? あの男、通りがけにわたくしのお胸に触ってきたのです!」

「ほんの一瞬だけじゃないですか、イェルカ姉上ー」


 あの色欲魔王め……。僕のイェルカになんてことを……!


「一瞬だけなんて問題ではありません。わたくしのお胸はアルフレート殿下のもの。ハーディ殿下にお触りする権利はないのですわ」

「そうだ、ハーディ。イェルカに触っていいのはこの僕だけだ」


 目を合わせ、ふたりで「ねー?」と言い合う。

 ああ、イェルカ。きみのことが愛おしくてたまらない。


「ラブラブですねー、羨ましいです。ま、あとはお若いおふたりでお楽しみください。さよならー」


 ハーディはにこにこ笑顔で手を振って、先ほど同様スキップで廊下を歩いていった。

 相変わらず、我が弟ながら、よく分からない子だ。


「イェルカ、大好きだよ」

「わたくしも大好きです、アルフレート殿下」


 ふたりで愛を囁いて、ほんの一瞬だけ唇を触れ合わせる。


 ずっと前からイェルカは、僕の唯一。

 この世の誰よりも、愛おしい人。





 僕がうんと幼い頃から、イェルカは僕の隣にいた。


 小さな頃から泣き虫だった僕を、いつも慰めてくれる、優しいお姉さんみたいな存在だった。

 僕の駄目なところもすべて受け入れて愛してくれる、聖母のような慈愛に満ちた女性だった。


 彼女のことをひとりの女の子として見るようになったのは、いつからだったのか。実はあまりよく覚えていない。


 ただ、毎日のように『愛しています』『大好きです』『可愛いですね』と言われる日々が心地よく、僕も同じように彼女に愛を返したいと思った日に、初めてのキスをしたことはよくよく覚えている。


 いつも年上の余裕を見せつけてくる愛しのイェルカだが、キスをしたり僕から触ったりする時には、頬を赤らめて恥ずかしがるような表情を見せてくれた。

 その表情を見ると、いっそう彼女への想いは強くなり、心の底から彼女を妻にしたいと思うようになっていた。


 無責任な親にはなりたくないと、婚前交渉はしないように約束していた。キスやハグをするだけで幸せで、満足していた。


 僕の体を狙う不埒な輩が現れはじめてからは、イェルカは僕のためにと一緒の寝室で寝るようになり、過激な輩に対してはハーディが身代わりになって僕を守ってくれていたようだ。


 頭が弱く騙されやすい僕は、いつも誰かに支えられて生きていた。


 あの変な薬さえ盛られなければ、僕らの関係性は変わらなかっただろう。あの日、僕は、イェルカと交わしていた約束を破ってしまった。


『アル。貴方の苦しそうな姿を、これ以上は見ていられません。どうか……今夜だけ……』


 イェルカの優しい甘さに流されて、初めて肌を重ねてしまった。あの愛に満ちた、仄暗く美しい夜のことを、僕はきっと一生忘れられない。




「あのね、アル……落ち着いて聞いてくださいね。わたくし……貴方との子を、身籠ったみたいなのです」


 そうイェルカから言われた時、頭が真っ白になった。

 一夜だけとは言え、可能性がなかったわけではない。ただ、本当に子ができるとは、思っていなかった。

 子どもはいつか欲しいと思っていたが、こんなにも早いとは思っていなかった。


 その日、僕は初めて――イェルカの、涙を見た。


「イェルカ……?」

「ごめんなさい、アル……。嬉しいんですけれど、本当に嬉しいんですけれどね……すごく、不安なんです……」


 ぽろぽろと涙を流す彼女を、抱きしめて髪を撫でる。気の利いた言葉なんて何にも言えず、ただそうしていることしかできなかった。


 十四歳の僕は親になる覚悟もなく、愛おしい人を慰める言葉も知らず、無力な男だった。


「アル……っ、アル……」

「イェルカ……大丈夫だ、イェルカ。僕も頑張るから……一緒に、頑張ろう……」


 そんなふうに、僕らは親になりはじめた。妊娠してから、イェルカは前より涙もろくなったように思う。あの日に初めて涙を見てから、たびたび涙を見るようになった。


「ううっ……アルが可愛すぎますわ……っ」


 そう言われて泣かれてしまった日には、どうしていいか分からなかったが。イェルカは良き母になるべく元気に毎日頑張ってくれていた。

 周りの人に支えられながら、ふたりで手を取って歩み、お腹の子もすくすく成長していた。




「イェルカ・フォン・シルベスター公爵令嬢! 貴様との婚約を破棄する!!」


 なんだかハーディが他のことも企んでいる気がしないでもない、サプライズプロポーズ計画だったが……まあ、イェルカが本当にこれで喜んでくれるなら、それで良いのだ。


 いろいろとびっくりな展開もあって、何回か混乱して泣いてしまったが。婚約指輪を渡した時のイェルカの、感動で潤んだのだろう瞳と満面の笑みを思い出せば、あれはあれでいい思い出になったな、と思える。


 あの女がイェルカに剣を向けた時は心臓が止まるような思いがしたけれど、イェルカとお腹の子が無事で本当に良かった。




「わたくしの努力は妃になるためのものではなく、貴方の妻になるための努力ですから。わたくしの全ては、大好きなアルを中心に回っているのですから」


 きみが真っ直ぐに愛してくれることがどうしようもなく幸せで、泣き虫な僕はまた泣いてしまった。 きみのキスで涙を拭われることが、温かくて心地いい。


 きみがくれる、あふれんばかりの愛に、僕もそれ以上の愛を返すことはできているだろうか。


「……イェルカ」

「はい、アル」

「子育て、一緒に頑張ろうな」

「……はいっ、頑張りましょう」


 まだまだ未熟なところの多い僕だけれど、イェルカとこの子のためなら何だって頑張れるから。


 愛する人を守れるパパになれるように、努力してみせるよ。


「アル、心から愛しています」

「僕もイェルカを愛している。……誰よりも、何よりも」


 不安な時は、ふたりで抱きしめ合って話をしよう。


 ずっと強く愛し合って、お互いを優しく思いやる、ラブラブで子煩悩なママとパパになろう。


 聖母のような優しさを持ち、僕を心の底から愛してくれる、愛しいきみと一緒なら。


 きっと温かく幸せな家庭を築いていける。


 愛しているよ、イェルカ。


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