隣にいるのは…

漱石

第1話 プロローグ その一 ピエロは月夜にダンスする

 龍崎一平は、大学図書館の書庫の中で、ため息をつく。

「いくらぼくが読書好きでも、この状態で閉じこめられたら、読書嫌いになり、本を恨むよ」

 同僚の太田晋が答える。

「ぼやかない、ぼやかない。この不景気に仕事あるだけマシだよ」

 ブックトラックに、埃を被った古書を並べながらなので、指先が白くなり、綺麗好きの晋は眉間に皺を寄せた。

「まあ、それはそうだけど」

 一平は、ボヤくのをやめて、書庫の整理に集中することにした。

 整理が、一段落つきそうな時、一平は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の文庫を手にしていた。

「『銀河鉄道の夜』か。ぼくこの小説大好きだったんですよ」一平は子供のように図書を掲げた。

 太田晋は、腰を伸ばしながら、

「じゃあ、借りてくれよ。うちの図書館の貸出冊数を増やすのに力を貸してくれ」

「わかりました。そうします」


 その日の業務が終わったのは、夜八時を過ぎていた。幸い週末で、土日が休みなので、それほどの疲労感を一平は感じてはいない。

 ゴ―ルデンウィークが終わり、初夏に向かう頃の街の夜景が一平は好きだ。暑くも寒くもない一夜、夜景から浮き出たかのような派手なジャンパーを着た大学生が、たむろしていた。

 一方では、夜の闇に溶け込もうとするかのように、置かれたベンチにネクタイを半ば外して、座りこんでいる一平と同じサラリーマンもいた。

 日本中どこにでも見かける金曜日の風景だ。

 しかし、今夜は異様な”人物"がいた。

 白塗りの顔に、赤く丸い鼻。紅白のラインが描かれたツナギを纏ったピエロがいた。

 ☆

 ピエロは踊っていた。そう、軽やかにステップを踏んで…。

まるで、ダンス・パ―トナ―と踊っているかのように。しかし、ピエロは独りだった。

駅前広場は、チェス盤をイメージして黒白にデザインされていたため、駅のライトと月明かりが、複雑な色彩を織りなして、そのチェス盤に反射し、あたかも本物のダンスショ―となっていた。

ベンチに座り崩れたサラリーマンも屯して話に興じていた大学生も駅に来あわせた老若男女が、ピエロを取り囲むようにして見守っていた。

一平もまた身じろぎもせずピエロに魅入っていた。

やがて、ダンスが終わると、大拍手が湧き起こり、その中をピエロは、チラシを配って歩いた。

「なんだ、近くにパチンコ屋ができるのか」

中年男が大声で話去っていく。

女子高生の女の子は、感激して涙ぐみながら、

「ピエロさん。ダンスかっこよかった。ありがとう」

と、チラシを手に去っていく。

ピエロは、最後のチラシを一平に渡し終わると、一つため息をついて、一平に視線を送り、駅前広場を去って行った。

一平はチラシを読んだ。

『どこへ向かうかわかりません。でも、あなたに一生の想い出をお約束します。男女ペアでご参加ください。

ツアーの開催は、八月中旬から十日間を予定しております。費用はお一人さま二十万円だけお支払い下されば、その他は一切かかりません。

用意の都合により、締切は、七月中旬とさせていただきます』

一平は、チラシを丁寧に折り畳み、カバンに入れた。

一平は、駅中の二十四時間のATMから、二十万円を引き出した。そのお金を、備えつけられている封筒に入れ、カバンに入れた。


(俺は何をしているんだ。ピエロの奇妙な踊りやこんなチラシのコマ―シャルメッセージにつられて大金を払おうとするなんて)

もう一人の理性の衣を纏った一平が制止させようと右耳に囁く。

一方で、左耳では感情派の一平が囁くのだ。

(面白そうじゃないか、一平。人生は一度切りだぞ。参加してから後悔しろよ)

一人の龍崎一平の中で、僅かな間に葛藤があった。

結果、感情派一平が勝利したのである。

この決断が彼を甘く、切ない、そして不思議な恐怖の旅へと向かわせたのだが、この時の彼は知る由もなかった。









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