9

 激しい闇が渦巻く呪霊の体内で、火亜は宙を踏みしめて進む。

 でも、火亜様ってさ

 だから

 知らないし

 でも

 いつかは

 今のうちに

 違う

 渦巻く悪意、不満、不安、愚痴は、戦が受けた傷だ。

 火亜はぐっと唇を噛む。

 ここは戦の、霊に取り憑かれた心の中。負の感情が引き出されて、ますます膨れ上がって、依代となった人を傷つける。

 早く戦を連れてここから出ないと、言霊が解けてまた霊が暴れ出す。なにより、心が完全に取り込まれた依代は魂を食い潰されてしまう。

「……っ戦」

 どこだ。どこかに本体が、戦がいるはずだ。

 名前を呼ぶ声は、一斉に押し寄せたひりつく言葉に押し流されてしまう。

 探して、重たくのしかかる昏さをかきわける。

「戦」

 消えてしまうかもしれない。

 それだけは絶対に、させない。

 させてたまるか。

 だって僕が生きているのは君のおかげで、君が生きているのは僕のせいだ。

「戦」

 出会ってから二十五日間。ずっと見てきた戦のたくさんの表情が、頭の中を通り過ぎていく。

 その中に笑顔だけがないことに、ふいに気づいた。

 一度も笑ってもらえないまま、戦はてのひらをすり抜けてしまう。

 幸せでいてほしかった。

 もうこれ以上何も知らずに、火亜がいなかった頃の世界に戻ってほしかったから手放したのに。

 火亜の元から離れれば、戦はいつか、火亜や叡俊や夾竹桃に向けているのとは違う、特別で大切な『好き』を見つける。

 その相手はきっと特別な地位も重責もなく、本当に普通の――穏やかで、誰にでも優しくて、みんなから好かれていて。

 そうすればいつかきっとこんな思い出が薄れるくらい、たくさんの幸せがあるはずで。ちゃんと、笑うことができて。

「……戦?」

 ふいに、風と波がやんだ。嵐が終わった。

 ぽっかり空いた暗闇の底に、戦がうずくまっているのが見える。

「戦っ!」

 弾かれたように駆け寄りながら、ああ、また泣かせてしまったな――と、心のどこかでそう思う。傷む。

 いつだってそうだ。

 大切な誰かを傷つけられたとき、人は、自分を傷つけられた時よりも、ずっとずっと苦しくなる。

 それは鬼だって、閻魔大王や泰山府君なんて立派な地位を持っていたって変わらない。

 僕らにはみんな同じ、感情という名の呪いがかかっているのだから。

 世界でいちばん愛しくて、世界でいちばんいらなくて、この世でいちばん残酷で、あの世でいちばん優しい呪いだ。

「……火亜様」

 顔を上げた戦は泣いてはいなかったが、火亜の予想通りに泣いていた。

 その顔が、ぐしゃっと崩れる。なんで、と細い声が漏れるのを、火亜は痛みを抑えて聞いていた。

「――火亜様のことを、何も知らずに傷つけるのは卑怯です……!」

 戦の声はほとんど悲鳴だった。もうやめて、と泣きながら叫ぶ願いだった。

「知れば……もっとちゃんと知っていれば、火亜様のことがわかるのに、声だってちゃんと伝わるのに。たとえ、たとえどんなに嫌だったり、不安に……心の中で、思っていても、その人に、救われた人がいるのに……! その人を好きな人が、信じている人がいるのに……! 嫌な言葉が、全部その人たちに、届くのに……っ」

 戦の声は、雨の中露台で立ちすくんでいたかのようにずぶ濡れだった。

「なんで……なんで何の責任もなく、あんなことが、何も考えずにあんなことが言えるんですか……?」

 知っている。あれは火亜のことをなんとも思っていない人が聞けば、暴言のうちにも入らない。

 だけど火亜のことを好きになってしまったから、そのぶんあんな些細な言葉で、鋭い刃に刺されたように辛かった。

 知っている。たぶん本人たちは、あれを暴言とも悪口とも思っていない。自分たちの言った言葉を、そう捉える存在がいることに気づけない。だってあの人たちは、火亜を知らないのだから。

 火亜を好きなわけではないのだから。

 立場を変えてみなければ、相手がどう思うかなんてわからない。

 自分自身が傷つかなければ、どんな言葉が人を傷つけるのかなんて気づけない。

 俯いた戦の目から、ぽたっと涙が一粒、落ちた。

 火亜が痛そうに、切なそうに瞳をゆがめる。

「――戦」

 名前を呼ぶ声はいつだって、胸が痛くなるほどに、美しい。

「ごめんね。ありがとう、戦」

 ふれたい。ふれられる。今、二人の間には何の隔たりもなくて、二人は互いを知っていて、手を伸ばせば届くのに、その指先に触れることができるのに。

 なのに、ふれられない。

 今なら頬を伝う涙を拭うことも、背をさすることも、その手を握ることも、目と目を合わせてありがとうということも、なんだってできるのに。

 あまりにも怖い。あまりにも、恐ろしい。

 ほんの少し火亜の指先が戦のほうへ僅かに動いて、ためらって、立ち止まって、迷って、動けなくなって。

 行き場のないてのひらが、どこにも辿り着けずにいざよっている。

 閻魔大王の息子として、そして閻魔大王本人として、いつだって堂々と胸を張って、自信に満ち溢れた態度で歩いてきた。

 怖がることなんかない。恐るべきものなんて何もない。

 なのに目の前でうずくまる傷に自らの傷でふれることが、こんなにもおそろしくてたまらない。

――僕は今まで、何をしていたんだ。

 数百人以上の人と真剣に向き合い、行方と言葉をずっと探してきたはずなのに。

 自分が一番欲しかった言葉をくれた人に、どう言葉をかけたらいいのかもわからない。

 ああ。

 僕は、こんなときに、


 無力だ。


(……いや、違うな)

 そんなことを言ったら、戦をまた、泣かせてしまう。

 でもそれなら、どんな想いを言葉にすればいいのだろう。

 火亜は逡巡の末にゆっくりと、言葉を続けた。

「……大丈夫だよ。不安や否定は自然と大きくなっていくけれど、僕のことを好きな人も、僕を信じてくれる人も、見えていないだけで、たくさんいる」

 君一人が、僕を好きなわけじゃない。

 決して君以外の全員が、反感を持っているわけじゃない。

 君は一人じゃない。

「君だけじゃない。君だけじゃないよ」

 いつもどんなときも、確かなあたたかさが脈打つような、血の通う声が。

 一言一言、一文字一文字を、くっきりと囁くように刻んでいく。

「ちゃんと、居る」

 戦の耳に、言の葉を添える。それがいつも、ひどくあたたかく響いて、儚く滲んで、囁くようないろになって。

 何も言わずに頷き返すだけの戦は、ぎゅっと両目を手でこする。

「――……私も、です」

 小さなかすれた声が一度震えて、それからぐっと足を踏みしめるように、はっきりと音に変わる。

「私も、火亜様のことが大好きです。それは……それは、この先ずっと、変わらないと思います」

 どうしても、戦は、今、言いたかった。

 好きです。ここにいます。

 ちゃんとあなたが部下から、周りの人から信じられていると、言葉にして届けたかった。

 どんなに否定されてぐちゃぐちゃになっても、それでもその感情に変わりはないから。

 あたたかい言葉を、一つでも多くの優しい言葉を、大好きな人に伝えたかった。

 火亜がそっと瞳を見開いた。美しいほどにあたたかい、涙が滲むほど大切な光に、色づくようにとけてゆく。

 淡く、切なく。等しく、愛しく。

「……ありがとう」

 今まで何度も口にした言葉を、もう一度。

 何百回言っても足りないから、何千回積み重ねても足りないから、この一回にすべての感情をこめて。

 何を言っても、その傷痕は癒せない。

 離れてほしいと言えば、火亜の言葉に戦は傷つく。

 一緒にいてほしいと言えば、周りの言葉に戦は傷つく。

 けれど周りがどんなに残酷でも、傍にいてくれる大好きな誰かのたった一言で、幸せになって、胸がいっぱいで、心が煌めく。

 それも戦が教えてくれたことだった。

 それなら、それならば、と思う。

――戦にとっての、そんな「大好きな誰か」に。自分がなってもいいだろうか。

 傷を吹き飛ばすほどに、どれだけ泣いていてもどうでもよくなってしまうほどに、世界が愛おしくなる理由に、僕が、なっても。

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