「……閻魔様」

 涙のおさまった美乃里が、まだ湿ったままの声を、それでもくっきりと形作る。

 火亜はさらりと黒髪を揺らして、穏やかな声で「なに?」と返した。

「いっこだけ、ワガママ言ってもいいですか。叶えられないのわかってるけど、聞くだけで」

「いいよ。何でも聞こう」

「……っ私は」

 美乃里がぐいっと目元を拭って、顔を上げる。

「もし、生まれ変われるなら」

 涙が枯れてしまったかもしれないと思っていたのに、また目の前がじわりと霞む。それでも美乃里は、火亜から視線を逸らさずに、あふれて止まらない想いを口にした。

「また……私は、また、私になりたい……っ!」

 頭に浮かぶのは、特定の誰かではなくて。

 ただ楽しかったと、そう思う記憶。

 もう一回私をやりたい、私になりたい。そんな気持ち。

「お父さんとお母さんの子どもになって、ゆうちゃんとも、みっちゃんとも友だちで、仲良くて、休日は三人で遊んだりして。今みたいに水泳が好きで、あとそれから、やっぱり……怖い話も、大好きで」

 もうこんな目には遭いたくないけど、でもやっぱり、図書館で怪談の本を探してみたり、友だちと怖い話で盛り上がったり、そんな日常だって楽しかった。

 好きなもの、人、繋がりを、全部そのまま受け継いで。

「嫌なこともいっぱいあったけど、生まれ変われるなら私でいい。もしも人生やり直せるなら、なにかの主人公とか、ヒロインとか、不思議な魔法が使えたりとか、得意なことがあるとか、そんなのなくていいから私がいい。すごく……ほんとに素敵な人生でした」

 他の誰でもない、私がいい。

「私がいい。私のままで、人生もう一回やってみたい。最後までっ……、最後まで、生きてみたかった……!」

 俯いた瞳から、ぽろっと涙が一粒、落ちた。

「もっと、本当はもっと……生きてたかったな……」

 あふれる。

 響く。

 水滴が波紋を呼ぶように、心のどこかで水面みなもが揺れる。

「生き……たかった、のに……」

 さらさらと、せせらぎのような衣擦れの音がした。

 黒髪をふわりと躍らせて、火亜が立ち上がる。

「生まれ変われるなら、また自分に――か。いい言葉だ」

 自分の胸に刻み込むように、火亜は丁寧に美乃里の願いを繰り返す。

 その瞳がどこか遠くを思い出して、そしてゆっくりと今目の前に焦点を合わせた。

「死んだあとにそう言えるのは、きっといい人生だったんだね。君自身の性格だけじゃなくて、周りの人との出会いにも恵まれて、愛を知らなければ出てこない言葉だ」

 山果美乃里、と十三歳の魂を呼ぶ。

「どんなに後悔しても、時間以上に命は絶対に戻らない。君は死ぬ」

 残酷なその言葉に、冷たさはなかった。ただ変えようのない現実を前にして宣告する声には、暗闇にほのかな火を灯すような、確かなあたたかさがかよっている。

「そして僕は、君の現世での生き方に力添えをすることはできない。でも、君のこれからの輪廻に……今生と同じような優しさが、交わることを祈っている」

 そこで静かに息を吸って、火亜が一歩後ろに退いた。

 一瞬の静寂をおいて、その頭が、ゆっくりと深く下げられる。

「――すまない」

 戦が思わず息を呑んだ。美乃里も驚いて目を瞠っている。

「君の生きたかった未来を、僕では君にあげられない。……それだけは、謝らせてくれ」

「えっ……え、そんな、そんなことないです! あれ、そんなことない? えっと、別に、全然」

 美乃里はわたわたと手を振った。まだ濡れた瞳をこすって、言葉を探す。

「でも、私、閻魔様ってもっと一方的に、いろいろ決めて、怖い感じかと思ってて……話を聞いてもらえて、話をしてもらえただけで、すごく嬉しくてっ」

「それくらいしか、僕にできることはないから」

 顔を上げた火亜が、眉を下げて微笑んだ。 

 美乃里は戸惑って視線を彷徨わせてから、夾竹桃に目を留めた。

「あっ、あと、きょう……きょうちーさん? も、ありがとうございます。おかげでなんか、落ちつけた気がします」

「どういたしまして」

 夾竹桃がすっと立ち上がって、叡俊の隣に戻る。

「私も、いいこと教えてもらえたから。素敵な考え方だと思う」

「そうですか……?」

「うん。大事にしてね」

 夾竹桃の声はいつも通り淡々と透明で、表情も動かない。その言葉にどんな感情がこめられているのか、その場にいる誰もわからない。

 けれどきっと、ほんの少し笑ったのだろう。

 そんな気がした。

「――閻魔様。判決は」

「ああ、そうだね」

 筆を手に取る夾竹桃に頷いて、火亜は再び椅子に腰かける。

「彼女は十分に、生の大切さを理解した。――司禄、境界を破った罰に関してはお咎めなしにしてくれるかい?」

「承知しました」

「それから、判決は……そうだね。僕のところでは賽の河原へ、それから天国にしておこう」

 目を瞠る美乃里に向けて、閻魔大王はふっとやわらかく微笑んだ。

「まだ、これで君の行く末が決まったわけじゃない。この後も裁判は続くだろうし、うまくいかないこともあると思うけれど、でも頑張って。そして」

 自分はもう支えられない、この先の未来。

 知ることも触れることも、守ることもできないその先で。

「――どうか、良い来世を」

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