3
「……閻魔様」
涙のおさまった美乃里が、まだ湿ったままの声を、それでもくっきりと形作る。
火亜はさらりと黒髪を揺らして、穏やかな声で「なに?」と返した。
「いっこだけ、ワガママ言ってもいいですか。叶えられないのわかってるけど、聞くだけで」
「いいよ。何でも聞こう」
「……っ私は」
美乃里がぐいっと目元を拭って、顔を上げる。
「もし、生まれ変われるなら」
涙が枯れてしまったかもしれないと思っていたのに、また目の前がじわりと霞む。それでも美乃里は、火亜から視線を逸らさずに、あふれて止まらない想いを口にした。
「また……私は、また、私になりたい……っ!」
頭に浮かぶのは、特定の誰かではなくて。
ただ楽しかったと、そう思う記憶。
もう一回私をやりたい、私になりたい。そんな気持ち。
「お父さんとお母さんの子どもになって、ゆうちゃんとも、みっちゃんとも友だちで、仲良くて、休日は三人で遊んだりして。今みたいに水泳が好きで、あとそれから、やっぱり……怖い話も、大好きで」
もうこんな目には遭いたくないけど、でもやっぱり、図書館で怪談の本を探してみたり、友だちと怖い話で盛り上がったり、そんな日常だって楽しかった。
好きなもの、人、繋がりを、全部そのまま受け継いで。
「嫌なこともいっぱいあったけど、生まれ変われるなら私でいい。もしも人生やり直せるなら、なにかの主人公とか、ヒロインとか、不思議な魔法が使えたりとか、得意なことがあるとか、そんなのなくていいから私がいい。すごく……ほんとに素敵な人生でした」
他の誰でもない、私がいい。
「私がいい。私のままで、人生もう一回やってみたい。最後までっ……、最後まで、生きてみたかった……!」
俯いた瞳から、ぽろっと涙が一粒、落ちた。
「もっと、本当はもっと……生きてたかったな……」
あふれる。
響く。
水滴が波紋を呼ぶように、心のどこかで
「生き……たかった、のに……」
さらさらと、せせらぎのような衣擦れの音がした。
黒髪をふわりと躍らせて、火亜が立ち上がる。
「生まれ変われるなら、また自分に――か。いい言葉だ」
自分の胸に刻み込むように、火亜は丁寧に美乃里の願いを繰り返す。
その瞳がどこか遠くを思い出して、そしてゆっくりと今目の前に焦点を合わせた。
「死んだあとにそう言えるのは、きっといい人生だったんだね。君自身の性格だけじゃなくて、周りの人との出会いにも恵まれて、愛を知らなければ出てこない言葉だ」
山果美乃里、と十三歳の魂を呼ぶ。
「どんなに後悔しても、時間以上に命は絶対に戻らない。君は死ぬ」
残酷なその言葉に、冷たさはなかった。ただ変えようのない現実を前にして宣告する声には、暗闇にほのかな火を灯すような、確かなあたたかさが
「そして僕は、君の現世での生き方に力添えをすることはできない。でも、君のこれからの輪廻に……今生と同じような優しさが、交わることを祈っている」
そこで静かに息を吸って、火亜が一歩後ろに退いた。
一瞬の静寂をおいて、その頭が、ゆっくりと深く下げられる。
「――すまない」
戦が思わず息を呑んだ。美乃里も驚いて目を瞠っている。
「君の生きたかった未来を、僕では君にあげられない。……それだけは、謝らせてくれ」
「えっ……え、そんな、そんなことないです! あれ、そんなことない? えっと、別に、全然」
美乃里はわたわたと手を振った。まだ濡れた瞳をこすって、言葉を探す。
「でも、私、閻魔様ってもっと一方的に、いろいろ決めて、怖い感じかと思ってて……話を聞いてもらえて、話をしてもらえただけで、すごく嬉しくてっ」
「それくらいしか、僕にできることはないから」
顔を上げた火亜が、眉を下げて微笑んだ。
美乃里は戸惑って視線を彷徨わせてから、夾竹桃に目を留めた。
「あっ、あと、きょう……きょうちーさん? も、ありがとうございます。おかげでなんか、落ちつけた気がします」
「どういたしまして」
夾竹桃がすっと立ち上がって、叡俊の隣に戻る。
「私も、いいこと教えてもらえたから。素敵な考え方だと思う」
「そうですか……?」
「うん。大事にしてね」
夾竹桃の声はいつも通り淡々と透明で、表情も動かない。その言葉にどんな感情がこめられているのか、その場にいる誰もわからない。
けれどきっと、ほんの少し笑ったのだろう。
そんな気がした。
「――閻魔様。判決は」
「ああ、そうだね」
筆を手に取る夾竹桃に頷いて、火亜は再び椅子に腰かける。
「彼女は十分に、生の大切さを理解した。――司禄、境界を破った罰に関してはお咎めなしにしてくれるかい?」
「承知しました」
「それから、判決は……そうだね。僕のところでは賽の河原へ、それから天国にしておこう」
目を瞠る美乃里に向けて、閻魔大王はふっとやわらかく微笑んだ。
「まだ、これで君の行く末が決まったわけじゃない。この後も裁判は続くだろうし、うまくいかないこともあると思うけれど、でも頑張って。そして」
自分はもう支えられない、この先の未来。
知ることも触れることも、守ることもできないその先で。
「――どうか、良い来世を」
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