御伽花死 4

 動かない体を背後から抱きすくめられる形で、宵藤太夫に背を預ける。辛うじて指先が反応する他は、視線と舌が鈍く回せるぐらい。少しずつ、しかし着実に彼女の毒が身体を浸食していた。藤の花に身体を取り囲まれて、薄紫の唇が耳朶を食む。

 危険な状況だけど、この機を逃すわけにはいかない。太夫と直接見えて、心と頭はまだ無事だ。彼女の目論見はわからないが、私を盲目の木偶に落としてしまうつもりはないらしい。手加減をしている隙に花園の情報を手に入れるのだ。

「桂花のこと……花園で桂花になにが」

 言葉を詰まらせながら、疑問の核心に迫る問いを投げかける。

「なにも。なにひとつ。彼女は花園でなにもなかった」

「どういうことですか」

「言葉通りの意味だよ。桂花は花園でなにもしなかったし、なにもされなかった。だから、枯れてしまった。花園でのことを聞いても、あなたの疑問を満たすことはできないだろうね」

「あんな姿で戻ってきて、なにもなかったなんてことッ!」

 しらを切られていると思い、感情が先に溢れて声を荒げてしまう。盛大に息を吸い込んだ拍子に、香りが肺腑の奥深くまで入り込み私から呼吸を奪う。咽る喉を抑えて、肩越しに宵藤太夫の貌を睨みつける。

「気が高ぶると香がはやく回ってしまう。私の香は強すぎる。花人といっても、吸い込み過ぎると危ないよ。人間なんて数十倍に希釈した残り香でも殺してしまうようだから」

 彼女は昂る気を静めるように抱いた肩を優しく撫でる。香りのせいだ。彼女の香りが常に傍にあるから平静でいられない。拮抗させているとはいえ、私の感情の発火を受けて容易く崩れるものだ。頭ではわかっていても、自分を抑えることが難しい。桂花のことになると尚更だ。

「あなたたちを応援しているのだから、嘘を吐く理由なんてないよ。この状態なら私はあなたのことをいつでも好きにできる。どうにかするつもりがあるのなら、本気で誘惑して、操り人形にした方が断然早い。私ではいつでもあなたを物静かな生け花にしてしまえる。この屋敷に飾られているように、愛に夢想して、私の視界を賑わせるだけの花束に……藤香なんかは、それが花人にとっての最良の幸せだと信じて手伝っているんだけどね。でも、そんなの悲しいだけじゃない?」

 いつでも愛せるぞ、と脅されたようなものだ。この状態では逃げることも、逆らうこともできない。それは彼女が明確に、私になにかを期待しているということでもある。なにもない、が言葉通りな意味とは考えられない。そこに裏がある。私の鼻は、美しさの陰に隠された謀略の匂いを嗅ぎ取った。

「なにを、考えているの、ですか?」

「花人の幸福を。私はすべての花人を愛しているから」

 愛。その言葉に、心の表面が激しく波を立てた。

「私は『外』を目指している」

 予想もしていなかった宣言に、しばらく思考が真っ白になった。

 外を目指すということ。私などは夢にも思わなかったことだ。

「だ、だって、外には病原菌が蔓延していて、庭師にんげんの管理するこの『植物園』でしか花人は生きられないって……まさか、嘘、なんですか?」

 今度は私の唇に指が押し当てられる。秘密の合図。太夫は妖艶に口の端を歪めた。

「誰にもいっちゃあ嫌だよ。まだ準備が整ってない。彼らに気取られたくない」

 はっきりと人間への反逆を口にした太夫。彼女の言葉が真だとすれば、私たち花人は一体何の目的で閉じ込められているのだ。

「考えてもみなよ。私たち花人は、人間にとってあまりに美しく危険な存在だ。彼らは生身のままでは、風下に立つことができないんだから。触れることも、視ることも、嗅ぐこともできない。こわい、こわい、化け物なんだよ? 心を奪われ、愛の奴隷にされる。意識を奪われ、死に眠る。花人の美は彼らにとって、鋭利な凶器なの」

「それって、おかしいじゃないですか。私たちを生かして、しかも花を咲かせあってる。毒を強くしているようなものだ。人間にとって危険な化け物なのでしょう、私たちは」

「使えるものは使う。花人が滅んでいないのは、ひとえに彼らにとっても有用だから。使い道があるのさ、私たちには」

「……蜜造酒」

 花人をも強制的に誘惑し、恋に落としてしまうことができる愛の妙薬。それほど強力な愛欲の力をもつ生き物、花人の他に知らない。『庭園』内では滅多に出会うことがないといった花陀の言葉とも繋がる。その素材が花人だとすれば辻褄が合う。

 花人を材料に造られる『蜜造酒』。花人の危険さに見合う、人間への利益をもたらすものだ。太夫ならばその魅力で、愛の奴隷に落とし傀儡とすることができる。そこから造られる酒も同様に。愛の信奉者は、愛する者のためになんだってやってのける。愛は理性や損得を凌駕する。深みにはまれば、自我が溶け切るまで抜け出すことはできない。これを利用しない手はない。

 おそらく『花園』は、花人たちから『蜜造酒』を造るための場所に違いない。だとすれば、桂花が持っていたことも不思議じゃない。花陀の嫌悪の正体にも納得がいく。もしかすると桂花が枯れたのも、人間達の『蜜造酒』製造に抗ったせいではないだろうか。

 直接的な原因は栄養失調だという話だった。言うことを聞かない桂花に対しての罰で、栄養補給ができずに枯死寸前に追いやられたのではないか。

 少しずつ、この世界の全貌が見通せた気がする。ならば、私たちの敵は人間で、宵藤太夫は信用できるのではないか。

「よく知ってるね、誰に教えてもらったの?」

「桂花が持っていました。それが何かは花陀が」

「ふぅん……あの子が。よく生きたままで解放してもらえたね、運がいいよ。あの子、私のやり方には反対してるから、いまケンカ中なんだよね」

「あ、私伝言を預かっているんです、花陀から。『森は広がってる』と」

 宵藤太夫は呆れたようにため息をつき、その整った柳眉を寄せた。

「まだそんなことを。それじゃあ、時間がかかり過ぎるっていうのに」

「どういう意味です?」

「花陀はね、壁を越えるために人間が滅ぶのを待つつもりなんだよ。花人の寿命は人間よりもはるかに長い。それこそ樹木のように、生きるだけなら何千年と待つことができる。あとはここの問題だけ」

 彼女は私の額を突いて問題を明確にする。

「人間を模した花人の脳には限界がある。記憶と人格の保存。それを恒常的に解決する手段があればいいって。あまりに暢気すぎる考え方だよ。人間の気が変わって処分される可能性もある。何千年経っても人間が滅びないどころか、私たちが太刀打ちできない文明を築いていたら? 待ちの勝筋はあまりにも薄いよ」

 宵藤太夫から漏らされる花陀の思惑に、私は違和感を覚えた。どうにも聡明な花陀らしくないな、と。その程度の想定、花陀にできないはずはない。ただ待つだけなんて、あまりにも人任せ過ぎる作戦だ。ほかに手段があるなら、そちらを優先するべきだと私でもわかる。

「藤姫のやり方には、私もお力添えできるのですよね?」

 宵藤太夫ではなく、藤姫と。私の口は自然に発していた。より親しみと尊敬を込めた愛称に。

「もちろん。でも、特別になにかをする必要はないよ。あなたはただ自分の恋心と本能に従って行動すればいい。私や花人、人間のことなんか気にせず。それが結局一番みんなのためになることなんだ」

「うん、わかった」

 私は素直に頷いている自分に、すこしの疑問も抱かなかった。

「桂花もじきに元気になるだろうしね。私はただ知っておいて欲しかったんだ。私たち花人の目指すべき目標と、あなたの取る行動はどんな場面においても、どんなに非道に思えることであっても、決して間違いなんかじゃないってことを」

 頬を両の手で包み込まれて、彼女の体温に抱かれて。私は大きく頷いた。小さな子供みたいに。

「迷わないでほしい。私はあなたのすべてを肯定するよ、白百合の子」

「うん……うん。わかった。きっと藤姫の言う通りにしてみせるから。だから――」

 その物悲しい夜と混じり合った、夕焼けが行き去る宵の色に。瞳に映し出された、底の見えない紫紺に吸い寄せられて。無意識に唇が近づいて行く。絡みつく指先。思考が剥ぎ取られて、私の心に彼女の言葉が何処までも落ちていく。深い、私も知らない深いところに。

「藤姫ッ!」

 悲鳴のような、その叫びに私の身体は弾かれる。

「やり過ぎだ。話が違います……最後は彼女たちに任せる。そういう約束だったはずだ」

 声を上げたのは顔面を青白くした藤香だった。彼女のおかげで私は我に返った。途端に背中に冷たい汗が滑り落ちた。いま、もしかして、私は誘惑されていたのか。

 恐怖で言葉を発することもできなかった。私は桂花のことより、宵藤太夫の言葉を優先しようとしていた。私のちっぽけな意志なんかでは、抵抗する意識すら、誘惑に気付かせてもらうことすらできなかった。

 まただ、また誘惑された。桂花のことが一番なのに。桂花のことだけを考えていればいいのに。私には桂花だけだと思いたいのに。そんな気持ちすらちっぽけに思えて。悔しさで涙が溢れそうになる。

「こんなの、ほんのお遊びじゃない? 台無しにするようなことしないよ」

 宵藤太夫の体温が私から離れる。同時に、抑えられていた香りの圧力が戻ってくる。

「おやすみ、白百合の子。私の古いお友達。あなたの恋が成就することを、心より願っている」

 全身から力が抜けていく。身体が倒れたようだが、感覚は遠ざかって行くばかり。冷たい布団が足から這い上がって覆い被さって眠りに誘う。

 重たくて、もう何も感じられない。

「さよなら。我ら花人の、愛のために」

 薄紫の、藤の花びらが、舞い落ちて消えていった。

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