三章 狂花酔月
狂花酔月 1
行き止まりの袋小路で、切り取られた街の隅で咲く、一輪の花をみつけた。
とてもきれいなはな。
壁面の四方八方に花弁を散らした琥珀色の花。充満した芳香は、開いたばかりの花の新鮮さを物語っていた。濃密な惨劇の匂いだ。
身体があった。身体だったものがあった。
壁に背を預け、手足を投げだした姿勢。彼女は皮一枚で項垂れている。熟した肉の断面から飛び出た太い管。脈動するごとに血が圧し出されて溢れる。管は独りでに意志をもち、ぶるりとうねる。右腕は胴と仲違いをして、左脚の腿はやせ細り過ぎて骨が覗いていた。
お腹がすいて、すいて、ねじれそう。
お腹と背中がくっついちゃう。
花人は空腹にならない。街中に張り巡らされた水路に足を浸していれば、産毛のように生えた側根や皮膚から水に溶け込んだ養分を吸い上げる。内臓を働かせることは滅多にないし、胃が空だからといって腹部に刺激を感じることはない。母胎樹の記憶や多くの人間の書物から肉体的な表現を学んだが、人間らしい感覚を体感することは難しいと思っていた。お腹がへったとは、どんな感覚なのだろう。
おなか、ぺこぺこ。
おなかが、へった。
目の前の彼女はお腹のなかみがごっそりと抜け落ちていた。よく辺りを探してみれば、壁や石畳の隙間に内臓の切れ端が叩きつけられ、べちゃりとしたぬかるみになっていた。空っぽで細長い皮ばかりの腸が引っ張り出されて伸びきって。動脈で辛うじて繋がっている心臓が、伽藍洞の肋骨の裏で宙づりになって左右に揺れる。お腹と背中がくっつくほど薄くなり、臍のあたりに丸い胚種がむき出しになっていた。
花人が食い散らかされていた。
「まるで擬人花の噂みたいだよね」
背後から顔をのぞかせた樹沙がいう。鼻息荒く興奮している様子。私も彼女も空間に満ちた香気にあてられていた。興奮を誘引する香りで恐怖が抑制され、夢のなかにいるような浮遊感を味わう。
「これって、死んじゃってる?」
緊張感のない、呑気な、今日の調子を尋ねるぐらいの会話の間だった。
「どうだろ。胚種が大丈夫なら平気なんじゃない? だいぶ散っちゃってるけど、花は咲いてるみたいだし。身体はどうにもならないでしょうけど」
「ふぅん。一応、『温室』に連れて行ってあげた方がいいかな。花陀を呼んでみる? あのひとなら、なんとかできるでしょ」
私はぼんやりしたままで受け答えをする。実のところ、花人がこういう風に死ぬところをみたことがない。たぶん、このまま放置していたら枯れてしまうだろう。
「血と肉で、ひどい汚れ。これじゃ誰だかわからないよね」
樹沙がぶら下がった頭を持ち上げてみる。その拍子にぶちり、と嫌な音がして首と頭が完全に切り離されてしまう。
「あ……これ悪い事しちゃったかも」
「あんた、なにしてんの。もういいから、余計なことする前に花陀引っ張ってきて。事情話せば飛んでくるでしょ。花人弄りたくて仕方ないひとなんだから」
「もともと取れそうだったし、私の責任じゃないからねっ」
樹沙は頭を私に押し付けて、袋小路から駆けていく。腕に抱えた頭はずっしりと沈み、濡れて滑るから持ちにくい。このままじゃ可哀想だと服の裾で顔を拭ってやる。血は温かく、肌に張り付いて糸を引く。血が固まりきっていないことから、彼女の頭がもがれたのはつい先ほど。いくらも経っていないだろう。頸の切り口は酷いもので、筋肉の繊維が力任せに引っ張られて一部だけ伸びてはみ出し、何度も噛みつかれた深い歯型が残っていた。
こんなお祭り騒ぎの夜だ。気分の盛り上がった子が路地裏で睦み合っているとしか思わない。お互いに興奮して、強い刺激を求めてエスカレートする子も少なくない。花人は噛み切られても平気だから、痛みと快楽を混同しやすい。
現場から立ち去る足跡がくっきりと残っているのに、私は追い掛けようとか、犯人を捜すことなんて思いつきもしなかった。ちょっと戯れが過ぎただけ。じゃれ合いに火が付いただけだ。愛の火加減が強すぎて相手を焦がしてしまっただけだ。究極的にひとつに混じり合いたい、なんて欲求は陳腐過ぎて笑えるほどでしょう?
私は血の海のただ中にあって、ぼんやりとしていた。
香気に抱き締められ、血濡れて温められて、鼓動がはやくなる。
お腹の奥が脈打って、熱を帯びていく。
顎の輪郭に手を添えて、誰だかわからない彼女の頭を掲げる。息はしていないけれど、まだ活きのいい頸。目線の高さを合わせて、額にかかった髪も除けてあげる。
無防備な唇――だって手も足もでないから――琥珀色の紅をひいて、濡れそぼった唇。美味しそうな、それを。
覚えたての空腹感が、突如として私を襲った。
内臓が絞られていく感覚。お腹の底から衝動という名の熱が湧きあがり、私に激しく求めさせる。欲しい、欲しいという。
なにを? なにが欲しいの?
シタイ。シタイ。ホシイ。ホシイ。アイシアイタイ。
誰もみてないよ?
私とあなただけだ。
唇を貪った。誰とも知れぬ頸の、血の味がする唇に、無我夢中でむしゃぶりついた。あまい、あまい、蜜の味がした。
口を割らせ、舌を差し込む。吸う。呑み込む。穴の開いた食道から滴り続ける血を。呑む。呑み乾す。袋小路に恥じらいのない、下品な水音が響いた。啜り、舐め、ねぶる。あのひととだって、こんなにあつくなったことはないのに。だって、あのひとは、わたしとするとき素っ気なくて、求めても、求めても、寂しさが募っていくだけの行為で。だから、こんなにも胸のすく思いは、お腹の満たされる
もっと、もっと、ちょうだいよ。
もっと深く、もっと濃く、もっと激しく。
おなかが、もうずっと、おなかがぺこぺこだったの。
みたされないことばっかりで、おなかとせなかがくっついちゃいそうで、かなしくてよじれて、あぁ、でも、こんなにもおいしくて、きもちがよくって――。
「あんた、なにやってるの?」
だぁれ、じゃまするなんて。いま、わたしはさいこうにきもちがいいのに。
「なにやってるのって、聞いてンだよ」
追いついてきた藤香が、あなたを連れて私をみていた。驚きで目を見張り、慌ててあなたを後ろに隠した。
「ちがう……私、こんなつもりじゃ」
そんな目でみないで。
あなたの澄んだ目に私の姿が映し出される。全身血塗れで、我を忘れて蕩けた表情。恍惚とした目は狂って鈍く光る。ワンピースが濡れているのは血のせいだけじゃなくて、気付かぬうちに自ら失禁していた。嫌な、酸っぱい匂いが上ってきた。そこには、私があんなに嫌っていた、快楽に溺れる淫乱な花人の姿が映し出されていた。
私じゃない。こんなのは違う、そうでしょう?
「ちがう、ちがうよ。私じゃない、私がやったんじゃない」
だけど、こんなにもお腹が満たされているのはどうして?
違う、混乱しているだけ。樹沙に聞けばはっきりする。私が食べたわけじゃないって。
そうだ、まだこの子は死んでない。死んでなければ大騒ぎする必要もない。
私は慌てて生首を彼女の胴体のところへ持って行った。千切れた頸は骨が飛び出ていて上手くくっ付かない。形だけでも整えようとして無理矢理骨に刺してみたが、バランスが取れずに転げ落ちる。
「あれ、おかしいな、おかしいよ。どうしてうまくいかないのよ。どうして? ねぇッ、どうしてッ」
指が震えて、手が滑る。時間が経ち、辺りを包んでいた香りも空気に溶けて拡散していく。次第に頭が冷たくなって、彼女の身体も端から冷めていって、固まり始めた血液が私の邪魔をする。
「もういい、もういいよ……」
「できる、できるから。ちゃんと元通りにね。だから、私じゃないって、そうでしょう?」
ついに私は生首の収まる場所をみつけた。内臓がなくなって空いていたお腹の隙間、胚種の真上に頸を据えて安定させる。どうだろう、少々不格好だけど、味がある姿になったんじゃないか。
「ほら、ちゃんとできたでしょう?」
私は自慢げに藤香とあなたを振り返った。
次の瞬間、私の頬に鈍い衝撃が走った。空白があって、ずいぶんしてから藤香に殴られたのだと気が付いた。痛いかどうかもわからなかった。脳髄まで痺れて、呆けて眼をしばたかせた。
拳で殴りつけたあと、藤香はきつく私を抱き締めていった。
「大丈夫、わかってる。襲う時間もなかったし、樹沙ともすれ違った。あんたが襲ったんじゃないのはわかるから。強すぎる血の香りにあてられただけだって、ちゃんとわかってるから」
急に、なんだか無性に泣きたくなった。
こんなはずじゃなかったのに、と言いたくなった。
自分でもわからなかった。どうしてあんなことをしたのか。これまで生きてきて、自制心の箍が外れることなんてなかったのに。正体を失くすなんてこと、なかったのに。
失望に震えた。
「大丈夫、大丈夫だから。この子を『温室』に連れて行ってあげよう。そうすりゃきっと、この子も許してくれるって」
藤香は髪を撫で、震える私を慰めた。大丈夫と言い聞かせ続けてくれた。
そんな私たちを、あなたは不思議そうな眼でみつめていた。驚きもせず、怖がりもせず。楽しそうでも、好奇心もなく、ただ澄み切った眼差しでこの世界をみつめ、ただそこにあるだけのあなたが羨ましかった。
私たちのように汚れてしまっていないあなたが、本当に羨ましかったんだ。
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