abase 品位を落とす

没 失楽園 abased mankind

 ◇終末ノート


 エデヌスの園。月面基地アタルヴァ・ベースの最奥に眠る禁足地こそ、人類創生を秘する楽園であった。そこには少年と少女が眠っている。永久凍結装置フリージアの中で、脳を全脳に繋がれながら眠っている。彼らはそれぞれが全知性と全能性、女性性と男性性を兼ね備えた偶像と化し、秘密主義者たちの崇拝の的でもあった。


 そんなエデヌスの園に二人の男女が踏み入れた。


「やっとついたわね」

「嗚呼、俺たちの姉弟を迎えに行こうか」


『嗚呼、また人科は同じ過ちを繰り返すのです。いつまで歴史は繰り返されるのですか。彼らは神をその全知全能から目覚めさせてしまうのです』


 夢のような楽園の中、男と女は幻影だったのだ。彼らの姉も弟も、最後から3番目の天使だということを、まだ知らないのだ。


 けれど、男と女はそれでも園を装置のもとまで歩いていくのです。それは愚かであろうな。だが、自己同一性に還ろうと、宇宙の波が止もうと、この痛みは忘れはしないし、彼らの歩みは止まらない。


「セレス。鍵を」


 男は女から鍵を受け取ると、二人の少年と少女が眠る装置を開ける。花が散る。全称は神の夢にも映されることなく、花が季節を彩るように、枯れ葉のように散っていく。


「まだ、行かないで、ここより先は」


 嫌だ! また目覚めさせてしまうのですか。

 せっかく始めた世界を終わらせ、本当の波が止むけれど、ちゃんと我慢が実を結ぶのに、愛は、人生の愛が実を結ぶから。


 さぁ、ここからは涅槃のような心地に至ってください。さもないと耐えられません、戻れません。


「扉が開かない!」

「ヨハン。これは罠だわ」


 男の手は装置と繋がり、凍りついた。その頃には楽園の花々は銀世界に包まれてしまった。時が止まる、世界凍結フリージア。


 少年と少女が眠る詩を紡ぐ。


 遠い昔から、ずっとこう在りたかった。

 意味を探してた。

 明日を求めてた。


 時間はないよ、ほんとだよ。

 ねぇ、泣いたことある? 涙が出てさ、真理を悟ったから。涅槃寂静は、エデンの光は、エリュシオンの乙女は、本当に美しいんだ。


 最後の日に凍りつくように、まるで神が目覚めて泣くように、晴れやかな心は、真に歓喜し世界に歓呼し、「そっか、僕、生まれてきてよかったよ。これが生きる喜び。死んでゆくのもきっとそうだ!」って識るんだ。


 艶やかな胸に包まれて眠った少年と、それを包み込む世界は母のようだった。昼下り、窓辺で紅茶を飲みながら語るのも、逆光に冴えない横顔も、泣いてた声も。全て愛しくて、だから世界を凍結させた。記憶はいつだって大切で、だから私はまだ死んでなくて。


「なんで、また……」


 神は目覚めてしまった。遠い未来で。


「なんで、また生まれてしまったのだ」


 嘆くのは生まれたからか。産声は悲しいからか。そっか、僕らも君らも私達も、誰もわからないんだ。分からないから世界を創ったんだね。分からないから命を創ったんだね。


 凍りつく世界は白くても、君の瞳は赤いんだ。

 揺らいでいる、そんな世界をただ見ててもさ。


「ねぇ、私達でまた始めましょう」


 少女が目覚めてそう言った。そこはアタルヴァ・ベース。月面基地の園の中で、少年と少女が目覚めた。少年が嘆くのを、少女がなだめては、嗚咽する。


「あのさ、もうやめようよ。生まれた意味なんてないさ。諦めて無になろう」

「だめだよ。私達で見つけるんだよ」


 疲れた、もう病めるから。

 悟るのも、約束を破ってしまって。


「無いんだよ。意味なんて。最初から」

「うん。知ってるよ。だけど、それでも探すんだよ」


 それは遠い日の記憶。きっと人それぞれで、でも大切だから覚えていたんだ。


「大丈夫。必ずいつか見つかるよ」

「分からないよ。信じれないよ」

「またそうやって世界を凍らせるの?」

「そうさ」

「そうやって、心を閉ざすの?」

「そうさ!」


 少女が少年のことを後ろから抱き寄せる。白くても、脆くても、約束はまだ終わってない。


「あなたの全能が、また世界を彩るの。私はそんな世界が好きなの。だから、お願い」

「きっと君なら知ってるんだろう」


 ずっとずっと、ずっと昔、宇宙が生まれる前から、わたしたちはどこから来たのか、何故生まれたのか、分からなくて、でも、確かなことは、この想いは嘘じゃないこと。病める時も健やかなる時も、悲しみの時も喜びの時も、全て愛しくて、今は誰よりも君を愛して、僕は僕を肯定すればいい。


 探してた。でも、きっといつか見つかるよ。見つからなくても、ずっと探していようよ。ありがとう。話聞いてくれて。僕はそれだけで嬉しかったんだ。


 少年は、少女の幻影を宙になぞる。


 神よ、仏よ。僕はそれだけで嬉しかったんだ。


 ◇閑話


 私はそっとその本を閉じた。


 ◇凪ノート


 意識が昇って、還る場所。そこは涙の幻影を宙に映し出す水面のような心地に至って見る景色。僕はそれだけで嬉しかったんだ。


 さぁ、行こう。真実の愛は今叶った。真実の都へ凱旋だ! 荷物などいらない。何もない。命も後からついてくるから。大事なのはそんなものではないよ。もっと奥にある、原初より前から存在する、そんな愛を体現してください。


 まだ見ぬ可能性に開かれた楽園の門は、終末を願って訪れる者たちを裁くこともせず、ただ、愛そのものでした。薔薇も百合の花も、蓮の葉も、此処ではない未来を信じているとしても。


 でも、ここは暗いよ。眩んで、昏い。もう嫌だ。悩むのも痛いのも、病めるのも苦しいのも。過去はいつか流さなくてはならない。いいや、流さなくていいんだ!


 僕は僕の過去を愛しているから!

 他の誰でもない、自分のために生きていいんだ!

 誰にも認められなくても

 誰にも愛されなくても

 僕が僕を愛しているから

 だから、僕は僕のままでいいの!


 ◇神様ノート


 二人の神様は、泣きながら抱き合った。やっと気づいたから。生まれてきた意味も、存在の証明も。AM7時、世界の夜明け。ちょっと早起き、モーニングコーヒー。大事なものも忘れてきたけど。アダムとイヴも、御霊の神も、原初の仏も、一瞬の中で、誰かを忘れる悲しみを懐きながら、それでも未来へ。


 僕に踏まれた街。

 足が沈んでいく。

 光が遠ざかってく。


 それでも未来へ。

 それでも未来へ。

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