第10話 蜘蛛の糸
毒の入った食事は口に運べばお腹を壊す程度では済まない。ソウタなら難なく食べることは出来るだろうが他はそうはいかない。
カーサは食べろと言われれば食べるつもりだった。それで死んだとしても、悔いはない。こんな所でいつまでも飼い殺しにされるくらいなら主上に喧嘩を売った女として名をあげるのも一興だった。
……どう出る?
視線の先にいる彼は、唇を引き締めて台無しになった料理を見つめていた。そして一言、
「もったいない」
そう呟いて、視線を上げる。
「どうしてこんな事をしたのか、聞いてもいいかな?」
優しい声で、爽やかな口調でソウタは言う。
怒ってはいないように見える。それどころか憂いを浮かべた瞳が少し潤んでいた。
気に食わない。あぁ気に食わない。
こんな小さな子供が持ち上げられて英雄視されていることがカーサの琴線に触れていた。
「あんたが主上にまで上り詰めて見たかった景色ってこれな訳? 周りからちやほやされ過ぎて檻の中に閉じ込められてることにも気付かないならただの大馬鹿者よ」
その時、カーサの首筋を冷たく鋭い風が撫でる。
何だと思う暇すらなかった。痛みすら感じないほど鋭利な剣先が薄皮一枚だけに線を入れていた。滲んだ血の温かさを知って、初めてカーサは斬られたのだと理解した。
「次はないぞ」
エメリアは振った刀を鞘に戻していた。
見る価値もないと目を伏せている彼女にもムカついて、
「いくじなし」
すまし顔の彼女に向かって鼻で笑う。
刀が飛んでいた。鞘ごと。
正規ではない使い方をされた武器は、それでも鋭くカーサの眉間に刺さる。貫くことは無かったが避ける間も無いほどの速度は眉間にくっきりと真っ赤な痕を作るには十分な威力があった。
「何すんのよ!」
「コロス!」
無様に倒れ、それでも跳ね起きたカーサは、青白い炎を背負うエメリアの姿を捉えていた。
……獣化は卑怯じゃない!?
より獣らしく、身体を作り替える技法。それが獣化だ。動物目なら訓練次第で誰でも出来るようになるそれは、筋力だけでなく知覚嗅覚も強化する。
肥大した筋肉に伸びた全身の体毛。鋭く尖った犬歯に刃物より鋭利な爪。溢れ出るエネルギーが青く陽炎を作る。
「ハ、ハーフにしては立派ね」
じりじりと距離を詰めるエメリアに、後ずさるカーサ。小さな部屋では小回りの聞く方が有利、だったらいいなと、カーサは冷や汗を浮かべていた。
とんっ。
背中に当たる硬い物を感じた。壁だ、そう察した時には目の前に必殺の爪が迫っていた。
「おやめなさい」
「ぎゃんっ!?」
爪は届かなかった。だから生きている。その代わりに床を舐める羽目になったが。
「紫鬼……」
「場所を考えなさい。今は貴方の時間じゃないでしょう? それとも──」
腕を握られたエメリアに、紫鬼が微笑みかける。そんな中でカーサは紫鬼の足に踏み潰されていた。
青白い炎とは対照的に、紫鬼は赤黒い炎を纏っていた。鬼種だから鬼化。原理は同じだがより力や硬さを強化する。
あまり見た目は変わらないが、その代わり特徴的な三本角が長く伸びている。両者とも炎の色を濃くして睨み合っていた。
怖ぇ……
どうにかして足蹴から抜け出したカーサは紫鬼の姿を見てそう感じていた。目が、村の男衆が狩りでろくな成果をあげられなかった時の女衆の目と同じだった。
「──切り捨てた子袋が今になって惜しくなったのかしら?」
空気が爆ぜた。
衝撃波で壁が崩れていく。その中心地にいる二人は手を取り合ったまま殴り合いを続けていた。
殴り殴られ、よろめいてもつないだ手で支えあい、その反動を使ってまた殴る。空気が歪むほどの打ち合いは単調な狂騒曲を奏でていた。
……あぁ、鬼種だもんね。
喧嘩が何よりも好きな種族が我慢に我慢を重ねた結果、あふれ出してしまっていた。角が二本折れ、口から血を噴出し、片目を真っ赤に腫らしても紫鬼は笑みを色濃くしていた。
対するエメリアは怒りで我を忘れていた。立派な犬歯は砕かれて、耳がちぎれ飛ぶ。それでもひるむ様子は一切なく、紫鬼の顔へ重点的に拳を突き立てていた。
「しゅ、しゅじょおぉ……」
部屋の隅で退避していたアポロは、頭に小皿を乗せてソウタにしがみついていた。
その彼はただ楽しい見世物を見ているというように笑っているだけだ。
「止めないの?」
カーサも距離を置くように逃げていた。しかしソウタの近くに張られた透明な壁のせいでそれ以上近寄れない。
「発散できるときに発散しておいたほうがいいでしょ。それに引き金を引いたのは僕じゃないし」
「この状況を生み出したそもそもの原因は貴方でしょ!」
「そうか、そうかなぁ。まあ止めるなら、カーサ、君がやりなさい」
「それって命令?」
「うん、命令」
いい性格してるわね、と舌を出してカーサは向きを変える。
既に部屋の中は惨状が広がっていた。分厚い一枚板のテーブルも細かい木片と化していて、無事な食器はアポロの頭の上を除いて一つもない。酒の入った瓶だけは封がされたまま幾つか転がっていて、四方を囲む壁は大きな穴をあけて風通しを良くしていた。
それでも二人は殴り合いを止める気配はない。このままではどちらかが死んでしまう。それだけは避けさせなければいけなかった。
……うーん、無理!
七英雄と、対等に渡り合える鬼を相手に、小人族では不利を通り越して無謀だ。
それでもやらなくては。
いつものバッグは手元にはない。今なお続く爆心地に近寄ればミンチより酷いことになる。状況を打破できるものはないかと目を凝らしても、形あるものはほとんど残っていなかった。
ただ一つを除いて、だ。
「失礼」
カーサは動く。あらゆる方向から飛んでくる衝撃波を潜り抜けて紫鬼の後ろに立つと、髪に仕込んでいた針金を取りだしていた。それを器用に曲げてフックを作ると、彼女の着る服の縫い目の糸を解いていく。
……いい仕事してるわね!
土蜘蛛の糸で作られた織物はこの乱打戦においてもほとんど傷がついていなかった。当然その縫い目もしっかりとしたものだったが、生地を裁つよりかは幾分も楽な作業だ。
外套一枚剥がれたところで着こんでいる紫鬼の動きに支障はない。むしろ軽くなった分動きがキレを増していた。
「いい加減に、頭を冷やせって!」
カーサは縫い目が無くなり地面に落ちた反物を素早く拾い上げた。そして相手以外目に入っていない二人を縛り上げる。
頑丈な布地で拘束されて、うっとおしそうに身をよじる。しかし、それだけでは完全に二人の動きを止めることはできなかった。
だから、カーサは転がる酒瓶を抱えて、大きく飛び、二人の頭に叩きつけていた。
パリンと、簡単に瓶が割れる。中から多量に入った酒が降り注いで、そして標的が変わる。
痛みらしい痛みを感じた様子もなく、ただ水を差されたことによる苛立ちの目がカーサに向いていた。
「残念。私の勝ちよ」
いつの間にか目前に迫っていた拳にカーサは唇をつける。拳はそれ以上近寄れないどころか、徐々に離れていく。
セーフ、と内心でかいた冷汗をぬぐう。
目の前では反物にくるまった二人が転がっていた。きつく締め付けられているせいで体を起こすこともできない。
その原因は蜘蛛の糸にあった。水に濡れると激しく縮む性質があるからだ。それは土蜘蛛の糸であろうと同じ事で、取扱には慎重にならなくてはいけない。
だから本来衣服に向いていないのだ。そのせいもあって非常に高価で、需要もなかった。
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