侑李くんは、甘くてときどきスパイシー〜ふたりなら、きっとどんな夢も叶えられるはず〜

松浦どれみ

第1話 王子くんの名前


「ダメだ……今日も我慢できない……」


 夕暮れどき。私は歩きながらお腹を押さえてつぶやいた。

 さっきから何度もぐうう〜という空っぽのサインが鳴り響いていた。

 中学に入学して二ヶ月。やっぱり小学校の頃とは運動量が違うのか、部活が終わって学校を出ると、お腹が空いてたまらない。

 電車に乗って二駅、降りたら五分で家に着くのに、学校から駅まで一五分の間に空腹の限界がきてしまう。


「今日も、寄っちゃおう」


 あと五分で駅に着くというところで、私はまっすぐに歩くべきところを右に曲がった。そこから三軒目に目的地がある。


 目の前には「シュクル」と書かれた看板のお菓子屋さんがあった。

 ドアの前に掛かっている木の札には「OPEN」と書かれていて、私はホッと胸を撫で下ろした。


 よかった、まだ売り切れてないみたい。


 私はガラス張りのドアを開け、店の中に入った。上に取り付けているベルがチリンチリンと鳴って、カウンターにいる女の人がこちらを見てにっこりと笑ってくれる。


「いらっしゃいませ!」

「あの、このバナナロールを……食べて帰りたいです」

「ありがとうございます。お飲み物はどうされますか?」

「じゃあ、アイスティーをください」

「かしこまりました」


 ショーケースにはケーキが三種類だけ残っていて、私はそのうちの一つを指差して会計を済ませてから奥のテーブル席に座った。


「お待たせいたしました。バナナロールとアイスティーです」

「ありがとうございます」


 ケーキが乗った白いお皿とアイスティーのグラスが目の前にそっと置かれ、店員さんは来店の時と同じように笑顔を見せてカウンターに戻っていった。


「いただきます」


 もう、アイスティーで喉を潤す時間も惜しくて。

 私はフォークを片手にバナナロールの三分の一くらいを掬い取って頬張った。

 ふわふわのスポンジと滑らかなクリームと甘いバナナ。全部が絶妙なバランスでお互いの味を引き立てている。口の中がどんどん、幸せで満たされてきた。


 やっぱりこの店、どれもおいしい〜。特にこのバナナロールは最高なんだ。

 私は今度こそアイスティーで喉を潤した。そして、さらにケーキを食べ進める。

 正直何個でも食べられそう!

 けど、家ではお母さんがご飯を作ってくれてるし、中学生のお財布から毎回六〇〇円が出ていくのは痛手だったりする。


 私がこの「シュクル」を見つけたのは入学後、部活が始まってすぐだった。

 あまりにお腹が空いて、うっかり駅への道を間違ってしまって見つけたのだ。

 あのときは、天国にたどり着いたかと思ったくらいにこの白いお店と並んでいるケーキが輝いて見えた。ケーキもどれもとっても美味しくて、私はすっかり「シュクル」のファンになった。


「ごちそうさまでした」


 あっという間にバナナロールを食べ切って、最後に深呼吸をした。こうするとバナナの香りを感じることができて、もう一口得した気分になるからだ。


「おいしかった?」

「うん、とっても〜」


 完全に無防備なときにふいに話しかけられたせいか、私は誰かもわからないその声に、まるで友達相手みたいな返事をしてしまっていた。


「よかった。父さんの自信作だからね」


 顔を上げると、そこには男の子が立っていた。


「ちょっと侑李ゆうり、お客様に何言ってるの? 失礼でしょう?」


 店員さんが侑李ゆうりと呼んだ彼は、さらさらの茶色い髪を揺らしてにっこりと微笑んだ。色白でパッチリとした目、茶色い瞳が輝いてる。

 あれ、この人、どこかで見たことがある?


「一年二組の有沢ありさわさんだよね。俺は……」

「あ、五組の王子くんだ」

「えっ……」


 目の前の彼がぱちぱちと瞬きしている。入学して部活ばっかりなせいか、クラスメイトと部活のメンバーしか名前を覚えていないから、もしかして間違えちゃったかな?


「あ、あの……みんなにそう呼ばれてるよね?」

「あ、いや俺は佐藤さとう侑李ゆうりっていうんだ。王子は周りが勝手に呼んでるだけだよ」


 佐藤さとうくんは、気まずそうに苦笑いをして名前を教えてくれた。

 私は申し訳ない気持ちと、恥ずかしさで居たたまれず、勢いよく頭を下げる。

 うん、まずは謝ろう。


「ごめん、私、知らなくて……」

「ううん。クラスも離れてるし、気にしないで」


 佐藤さとうくんの優しい声に反応して、私は顔を上げた。彼はその声と同じように優しく微笑んでいる。この表情を見てしまったら「王子くん」って呼んじゃう子の気持ちも理解できるな。


「あ、このお店、佐藤さとうくんの家なんだね? 私、ここのお店のケーキ大好きなんだ! お父さんにおいしいって伝えておいてね」

「ありがとう。有沢ありさわさん、実は君にお願いがあるんだ」

「え、なにかなあ?」


 急に佐藤さとうくんの表情が固くなった。まるで緊張してるみたい。

 彼はそのまま、ぎゅっと目を瞑って、顔の前で両手を合わせた。


有沢ありさわさん、ぜひ俺が作るお菓子の試食役になってください!」

「シショクヤク……?」


 聞きなれない言葉がうまく頭に入ってこない。

 私は目を閉じたままの佐藤さとうくんをじっと見つめる。

 ああ、まつ毛まで長いんだ。本当に王子様みたい。合わせている手も指が長くて、爪はツヤツヤで短く切り揃えられている。

 きれいだなあ……。

 私は佐藤さとうくんの言葉を繰り返しながら、そんなことをぼーっと考えていた。

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