第39話 夜の話

『儂に何かあった時はここに行くがよい。奴の機嫌がよければ話ぐらい聞いてくれるじゃろ』


 生前の松山が残した言葉を頼りに、傷ついた体をおしてりんごが訪れたのはとある山中であった。

 そこで出会った存在にりんごは程よく歓待を受け、しばしの休息の時間とした。


 そしてしばらくの時が経ったとある日の夜、りんごはその存在に出立を告げる事とした。


「まぁ、世話になったわ。体も動くようになったし私はもう行く」

『かかか。まったく人間と言う存在はせわしいのう』


 りんごの目の前に存在する何か巨大な存在は、おぼろげな姿の奥からりんごの心に直接そう語りかけてくる。


『じゃが、気をつけろよ? 骨の髄までボロボロだったぬしの体を癒すのに、ぬしの寿命は20は縮んだぞ?』


 何かはニヤニヤと値踏みするようにそう語る。


「長生きに興味なんてないわ。借りっぱなしは趣味じゃないの、あの狸婆の約束が果たせるならどうでもいいわ」


 つっけんどんにそう返したりんごに、何かはケタケタと愉快そうにその存在を震わせる。


『ふむ。まぁ儂の知ったことではないがの。じゃがいいのか? あの狐の相手をするのに儂の助力は要らぬと?』

「言ったでしょ? 借りを作るのは余り趣味じゃないの。それにアンタと奴が本気でぶつかり合えばどれだけの被害が出るか分かったもんじゃないわ」


 ため息交じりに吐かれたりんごのその答えに、目の前の存在はケタケタと体を震わせる。

 そうして、荷物を背負い旅立とうとするりんごの内へ、別の声が届いてくる。


『待てりんご、こ奴と刃を交わせる機会など願っても得られぬ物だ。後5年、いや1年で――』

「却下よ、この剣術バカ。リハビリはもう十分やったでしょ?」

『むぅ……じゃがのぅ。神と刃を交わせる機会など』

「何よ、神様とやらなら、これからやる相手もジャンルとしてはそっちでしょ?

 まぁ神は神でも邪神の類でしょうけどね」


 と、ぶつくさと文句を言う内に巣くう妖に向け、りんごは肩をすくめながらそう言い――ちらりと目の前の存在へ視線を向ける。


 神、そう目の前の存在も神と言えるものだ。

 ここ伊吹山にまつられし神である伊吹童子、またの名を伊吹大明神。それは日本神話における八岐大蛇の別側面ともされるものである。その本質は人間には到底制御不能の荒ぶる力の象徴。自然の驚異が信仰となり具現化した存在ともいえる。

 傷を癒してもらった、りんごはリハビリとしてそれが操る人形との立ち合いを行っていたのだ。


(まぁ、こいつもどっちかと言えば邪神の類よね)

『かかか。儂の目の前でよく言いうわ。心の内が悟られぬとでも思ったか?』

「知ってる、礼儀として口には出さなかっただけよ」


 いけしゃあしゃあとそう言うりんごへ、目の前の存在は笑いをこらえつつこう言った。


『まぁそうじゃの。儂もあの狐も本質的には同じようなものじゃ。じゃが、儂の助力は誠に要らぬというのか?』

「何度も言わせないで、借りを作りっぱなしなんて趣味じゃないの」

『隠神の奴とは古い付き合いじゃ。奴との関係を考えると、高々人間の小娘の傷を癒しただけではちとつり合いが取れぬ』


 目の前の存在は、そこまで語るとしばしの時を置いてこう続ける。


『この山は儂の聖域じゃ。有象無象は近寄ることを許しておらぬ』

「あっそう。つまりは、ここの外には出迎えがいるって事ね。まぁ有象無象に用事がないのは私も同じ、とっとと切り捨ててあっちへ帰るわ」


 そっけなく答えるりんごへ、目の前の存在は挑発するようにこう言った。


『かかか。それは結構な事じゃ、じゃがそんな暇はあるかのう?』

「む……う……」

『ここ伊吹の山からあの狐がおる場所までは人間の足じゃとしばしの時を有する。ぬしは呑気に歩いて帰るつもりか?』


 どうしようもない正論に、りんごは言葉を詰まらせる。

 行きは陰に隠れ、野山を駆けずり最小限の接敵でここまでたどり着くことは出来た。

 まぁ、その余りにすんなりと行った行軍の過程には、山神である目の前の存在の陰ながらの助力があった事は確かだろう。

 復調を果たした今の体なら妨害さえなければ1日あれば東京まで戻ることもできるだろう。

 たかが1日、されど1日。


『かかか。人の子よ。儂から恩寵を賜るなどよほどの幸運がなければ叶わぬことじゃぞ?』

「……分かったわよ」


 むくれ顔でそう呟くりんごの目の前の空間がゆらりとゆがむ。

 陽炎が如きソレの向こうには、キラキラと輝く都会の喧騒がぼんやりと透けて見えた。


(空間転移……ね。神様って奴はこれだから)


 新たにできた借りに、りんごはため息を吐きつつそれをくぐろうとして――


『かかか。ああは言ったが、これはお主への助力ではない。儂と隠神とのやりとりのおこぼれじゃ』

「あっそ。そう思う事にするわ」

『うむ。それでよい。

 まぁ儂もこの国に根付く神の一柱、よそ者の狐に大きな顔をされるのはちと困る。

 さりとてお主が言うように、儂が直接奴と相対すればこの国も無事ではすまぬ』

「話が長いわ」

『かかか。まぁ言いたいことは――

 死ぬなよ人間。これだけじゃ』


 投げかけられた言葉に返事することもなく、りんごはソレを潜り抜けた。





 夜の新宿歌舞伎町。

 人通りの少ないその路地裏にある一軒のバーに男女2人の姿があった。


「はぁ、まったく嫌なものを見たわ」


 いちごに対する厳しくも暖かな態度は鳴りを潜めた種村はウイスキーに一口付けた後そうため息を漏らす。

 隣に座る江崎はそれには答えることはなくただ苦笑いを浮かべ盃に口をつける。


「彼女の顔、アレは戦士の顔だった。

 向こうで飽きるほど見た、自らの命よりも大切なものを知ってしまった人の顔」


 カラリとグラスの中で氷が揺れる。


「そんな顔をする子供を一人でも無くしたい。そんな思いで活動してきたのに……。

 まさか自分の故郷がこんなことになってるなんてね」


 種村の寂しそうな笑みを、江崎は複雑な表情で眺め見る。

 そして、江崎は覚悟を込めた顔で種村へとこう言った。


「種村さん。本当のことを聞く覚悟はございますか?」


 江崎としては種村の戦場はここではないという考えだ。無関係な人間をこの命がけの戦いに参加させるつもりはない。

 だが、種村が戦場カメラマンとして活動している動機を知っている彼としては、ここで踏み込まなければ敬愛する先輩ジャーナリストへの不義理に当たると判断した。

 江崎の言葉に、種村はグラスの中身を飲み干して――。


「覚悟? 私を誰だと思ってるの? ジャーナリストなんてものはね真実とやらを追い求めないと死んじゃう生き物ろくでなしなのよ」


 と、不敵な笑みを浮かべた。





 りんごが消えてしばらく、ガサゴソと藪が動く音がなった。


「おーい。りんごー。差し入れを持ってきてやったぞー」


 そんな呑気な声とともに姿を見せたのは、小柄な少女の姿だった。

 天上に輝く月のような黄色の髪を腰まで伸ばし、それと同じく鮮やかな黄色のミリタリージャケットを身に着けていた。


「んー? りんごー? おらんのかー?」


 少女は左手に持ったレジ袋をブラブラさせながらそう声を上げ、ヒクヒクと鼻を動かす。

 だが、その声に答えるものは存在せず。少女の声は闇に木霊するのみ。

 少女は退屈そうに周囲を見渡す、その動作に連れるように、だらんとぶら下がった右袖が風に揺れる。


「むー。伊吹の! 伊吹のはおるか!」


 少女が虚空へ呼びかけると、少女の前に何か巨大な存在が形を成す。

 顕現した伊吹大明神は少女へと意地悪そうにこう言った。


『かかか。あの人間は既に旅立ったぞ?』

「なぬ⁉ ホントか伊吹の!」

『うむ。ほんの半時前じゃな』


 その答えに、少女は思い切り頬を膨らませながらこう言った。


「むー! この我に一言の挨拶もなしとは! りんごの奴め! 薄情ではないか!」

『かかか。薄情、か。まぁ貴様らしい物言いではあるな』

「薄情を薄情と言って何が悪い! むー! 人間にしては見どころのある奴じゃから、この我の手下にしてやってもいいと考えていたものの!」


 ぷりぷりとそう口角泡を飛ばす少女。

 そう、その言葉から分かるように、少女は人間ではなかった。その証拠として少女の左頭からは、それを主張するように赤黒く染まった一本の長い角が生えていたのだ。


 そんな少女、否、鬼の様子を眺めていた伊吹大明神はゆっくりとこう問いかける。


『あやつは行ったぞ? さてお前はどうする?』


 しばしの沈黙、そして鬼はこう答える。


「はぁ、仕方がない。我の未来の手下の為じゃ。隠神への借りもある、ちょいと手助けしてやろうではないか」

『かかか。左様か、ならば行くがよい』


 伊吹大明神がそう言うと、鬼の前の空間がゆがむ。


「おう! ではさらばだ伊吹の!」

『うむ。まぁ達者での、茨木』


 鬼――かつて茨木童子と呼ばれた存在は、伊吹大明神の声を背中に受け、ひょいとゆがみへと身を躍らせたのであった。

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