第34話
結論から言うと、俺がリクリスの腕をぶった斬ったことは、彼にとって限りなく致命傷に近い深手となった。俺の魔力にもカルドの聖性が少なからず付与されていたらしい。
だが、致命傷の中でもランク付けがあるとするなら、今回のそれは幸運にもランクの低い致命傷だった。危険度「上の下」みたいなことである。放っておけば確実に毒に侵され死ぬものの、即死ではない。とはいえ微量の聖性を持つ魔力でこれなのだから、悪魔にとっての銀の脅威は推して知るべしだ。改めてカルドの持つ力の強大さを思い知らされる。
「っ、まずい、リクリス……!」
異変を見とめたカルドが、慌ててリクリスの元に駆け寄る。熟練の医者のように新品の手袋をはめる姿は様になっていたが、事態の深刻さには流石の美貌もかなわないようだった。俺もその麗しい横顔を目で追いはするが、心に刻み込むほどの余裕はない。
「構う必要などありません、私の……、自我などに」その場にうずくまり、おそらく本能の支配に耐えているリクリスの身体は、既に歪に変化しようとしていた。大胆に破壊された機械のようにどこもかしこも帯電し、人の形を保つのがやっとに見える。「殺しなさい、早く……」
「殺さないよ。……絶対に、死なせない」
カルドがその肩を正面から掴み、覗き込むように目線を合わせた。力強い目はどこか悲しみを抱いていて、過去に自分の力で人生を奪った悪魔と重ねているようにも見える。
「そう……ですよね、」ひひ、と自嘲的に笑う声は、息が掠れるほどにか弱い。「私がいないと……恩人も救い出せませんからね、……罪人をただで生から解放するわけにはいかない……そうでしょう? 貴方が私を殺すわけがない、いかに私が忌々しかろうと、貴方は私を殺せない、この身を天に裁かせるまでは……!」
リクリスは最後に早口でそう捲し立てた。狂うほどに焦がれた憎悪の対象を、最後まで逆撫でしようと躍起になった言にも聞こえたし、もっと単純に、叶わない願いを、その現実を──自分に言い聞かせるためだけに放った独り言にも聞こえた。いずれにせよ、そこに俺が介入する余地はない。俺はこの場において、間違いなく最も無知な成功者だった。カルド・レーベンという名の地獄に足を踏み入れて最も日が浅い、ただの勝者でしかなかった。
しかし、カルドもまた、何ひとつ言葉を発さなかった。俺は何も知らないし彼の表情を窺うこともできないけれど、その目がどれだけ感情豊かにものを語るかだけは、痛いほど理解していた。
そうしてしばらくの間があって、リクリスが屈するように鼻で笑う。私はどこまでも貴方の邪魔でしたね、と──そう途切れ途切れに言葉を零す。歪んだ感情の、正しい性根を垣間見る。
彼もまた、カルド・レーベンという悪魔に全てを狂わされた人格のひとりだった。そんな単純な事実をこれでもかと理解すると同時に、その懺悔を受けた魔性の持ち主の心中を思う。そうやって自分の意思ではどうしようもないところで他者の感情の毒壺となって、彼は底のないあの瞳を手に入れてしまったのだろうか。だとするならば、彼はリクリスの懺悔すらもその体内に受け入れるほかないのだろうか。……なんにせよ、俺には口を噤んでただ思いを馳せることしかできない。
だが、次の瞬間に押し黙る場の空気を震わせたのは、彼の小さな舌打ちだった。
そして、「ふざけるな」と。確かにカルドはそう言った。零すように呟いていた。
「ふざけるな……ふざけるな、ふざっっっっっっけんなッ!」
世界中の空気がビリビリと震えた。──そんな風に錯覚してしまうぐらいには、誰もが度胆を抜かれていた。
だが、そう叫んだのはやはり他の誰でもない、純潔にして高潔な魔性の悪魔なのだった。
「何勝手に終わった気になってんだ! こっちを向けって言ってんだよ!」
唖然とする胸ぐらに掴みかかり、吠える。狂気としか思えなかった。あのカルドが獣の声で思いの丈を叫んでいる。勝手な押しつけで、脈絡も理論もなく、ただ主張している。激怒している。一体誰がそんな暴挙を覚えさせた。一体何がどうなった。
それでも俺たちは、どうしようもなく惹きつけられている。息を止めて、次の言葉を待っている。
「憎いなら憎めよ! 憎ませてやるよ! 絶対お前なんかより幸せになってやる! この先の未来で見せつけてやる! 憧れてたんだろ⁉︎ だったらこれからも後ろから見てればいいんだよ! 目ェ背けたくなっても絶対させない──お前の罰はそういうモンなんだ! 僕が死ぬまで永劫苦しめ! 覚悟しろ! 僕の人生でお前の心を甚振り殺してやる!」
叫んだ後の息遣いだけが空間を支配していた。でも、それすらも耳から耳に抜けていく。
圧倒されていた。何者にも敵わない、生の輝きだ。迫り来る本能や狂気さえも忘れ去ってしまうような、純正の怒りで恨みで──赦しだった。一瞬にして心を奪われた。
「……だから生きろ。意地でも。どんな醜態晒しても」
捨て置くように言って、手が離れた。突き飛ばされたわけでもないのに、リクリスの脱力した身体が後ろ向きに倒れる。放心という言葉が相応しい。開ききらない大の字のように転がったリクリスはもはや抜け殻のようで、それでも──やはりタイムリミットは迫っていた。
「どんな醜態を晒してでも」とは言っても、魔物化しては元も子もない。それは周知の事実だ。ルーラの無事を守るためにもリクリスの証言は必要だったし、やっぱり「死んで終わり」というのはあんまりな気がした。犠牲を払って正常な生活を得るなんて、昔のカルドにしたら逃げ続けることよりも容易だっただろうし、それを耐え忍んで今まで苦しんできて、最終的にこの結末に行き着くなんてのは惨すぎる。
……だからといって、俺にできることは何もないのだ。この死にかけの悪魔に分け与える魔力もなければ手段もない。それに、俺の契約はカルドのものだ。仮に魔物化を防ぐために一時的な契約の乗り換えが可能だったとしても、この契約だけはもう二度と切れないと思った。……こんな崖っぷちで、わがままだとは思うけれど。
だからまあ、こんな自分本位の感情に固執して最善を探せなかった俺とは違って、俺たちの前に現れたその人物は、やっぱりとてつもなく大人なのだろうと。自分の未熟さを自覚しつつそう思う。
「──なんでおれが寝てる間に全部終わってるんですか。おかげさまで一番いいとこ見逃したじゃないですか」
いつもの快活さなんか捨て去った、不機嫌でふてくされた暗い声色。
「…………藤沢……⁉︎」
その手には物騒にも、抜き身の果物ナイフが握られていた。いつもと違う澱んだ気配と相まって、今にも殺人を起こしそうな雰囲気が漂っている。それでも殺人鬼と見間違えなかったのは、いつしかのカルドやリクリスのような不安定さがなかったからだろうか。その目に宿った光はまっすぐで、仮に誰かを殺すとしたら揺るがない復讐心によるものだろうと思った。
そう思った矢先、藤沢はピンポイントで俺の不安を煽る一言を発する。
「これは復讐ですよ、先輩」
「え、俺⁉︎」思わず自分を指さして狼狽する。場にそぐわないが必死なのだ。「俺何かした⁉︎」
「違うわよ」藤沢の後ろにルーラがいることに気づいて、俺はひとまず胸を撫で下ろす。「復讐のために殺すんじゃない。復讐するために、生かすのよ。イコマが決めたこと」
ま、それも小さい動機だけれど、と言われて、なんとなく察せられるものがあった。別に重大な復讐を果たそうとしているのではない。言ってしまえば、それが彼の大義名分なのだ。
俺もまた苦笑して、「それじゃあ仕方ない」と後ろに下がる。流石に疲弊しきった様子で佇むカルドの肩をぽんと叩いて、その腕を引く。しかしカルドは一度立ち止まって、すれ違おうとする藤沢の方に目を向けた。
「……本当に、いいのかい」
「あ、身近な人が契約者って、嫌ですかね?」
藤沢はここぞとばかりに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まあでも、ちょうど電気代節約したいなって思ってましたし。皆さんがよければおれは構いませんよ。……正直言うとおれもムカついてるとこありますし」眉を八の字にして、リクリスの方を見遣る。「自衛のために魔術教えてもらってたのに負けるの、普通に心外なんですよね。おれ、こういう挫折? 敗北? 意外と初めてかもしんないので。マジでムカつく。だから服従させてやるんです。私怨っちゃ私怨ですけど。……ああでも、別に貸し借りの問題ってつもりはなくて。やっぱり仲間は多い方がいいかなって。楽しいし、寂しくないし」
だからこれからも、おれ「たち」とも仲良くしてくださいね。
そう言われて、カルドもようやく笑った。憑き物が落ちたような、柔らかい笑みだった。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
そう言って走り出したかと思えば、振り返って、また何か言う。
「末永くお幸せに!」
「やかましいわ!」
俺は叫ぶし、カルドは眉間を抑えて呻いていた。
「聞かれてたか……」
「そりゃあれだけ叫んでたらな」俺もどこか晴れやかな気分で、苦笑した。後輩の初敗北宣言も拍車をかけていたかもしれない。「珍しいこともあるもんだ」
「僕は別に……言いたいことを言っただけだよ」
「その言い方がヤバいんだよな。普段怒らない奴は怒った時怖いって言うけど、お前は下手したら何百年怒ってねぇじゃん。どうにかなっちゃったのかと思ったわ」
「もっと他にあったじゃん、どうにかなってた時ぐらい」
「『ぐらい』って言うな。普通に一大事だわ」不服そうに唇を尖らす傍らの悪魔をちらと見て、肩を竦める。「でもさっきのお前も、俺は好きだよ。暗い過去とか全部振り落として前だけ見てさ。……まあ俺はいつものお前も好きだし、どっちでもいいんだけど。まあアレだ、いつものお前でも言葉遣い荒くて周り全然見えてないお前でも、俺は変わらず付き合える自信あるから安心して感情出していいぞってこと」
「……全く、誰に似たんだかね」
ふふ、と吐息で笑った後、カルドは俺の背中を軽く叩いて別の方向に足を向けた。何事かと思って周囲を見回すと、前方にルーラが立っている。それなら俺じゃなくてお前だろという思いを込めて呼び止めようとするが、先手を打ったように「どうせ後で会うことになるだろうからね」と手を振って離れて行ってしまった。
「ごめんなさいね、折角二人だったのに、邪魔してしまって」
用があったのは俺の方だったらしく、ルーラは特に気にする様子もなくこちらに歩み寄ってきた。だったらまあいいかもしれないが、それにしても……
「ルーラ、お前までそういうこと言う……?」
「憎い相手の相方だって憎いものよ」
くすりと笑うルーラの表情は、言葉とは裏腹に穏やかだ。
「キョウ、あなたでよかった。さっきのカルドの言葉を聞いてそう思ったわ。あなたじゃなかったら、彼もああいう風には変わらなかったでしょうから」
「いい変化かはさておき、かもしれないけどな」
「いい変化よ、間違いなくね」
おどけながら放ったボールが思いのほかストレートに打ち返されてきて、わずかに反応に困る。一瞬の無言の隙間に、冷たい夜の風を感じた。
「あれが自分の運命に真正面から抗うなんて、誰も思わないじゃない。だって私たちは、あの男が誰にも抗えない強い風に晒されて、それでも立っていられるところを綺麗だと思って見ていたんですもの。それ以上の強さなんか想像もしなかった。……でもあなたは、その渦中に身を投じてでも彼の手を取った。彼の弱いところを真っ先に見て、愛していたのはあなただけ。それだけで充分じゃない?」
「……」
ルーラの清々しくも冷静な言葉が、俺の心願の成就をこれでもかと物語っていた。全ては一瞬。だが、その一瞬であらゆる人のあらゆる想いに区切りがついた。何十年何百年の想いも、たかだか数週間の想いも。
平等に区切られ、不平等に成就した。
願いが叶うというのは、こんなにも重くて、少し寂しいものだったのか。
「……正直、俺自身ここまで強引にやるとは思ってなかったよ。思いの強さってやつ、俺は今まで持ってなかったから。あいつを変えたのは俺かもしれないけど、俺を変えてくれたのはみんなだ。……と、俺は思ってる。ルーラからは決意も焦りも貰ったし、リクリスからも一応……敵対心みたいなのは貰ったはずだし。そういうのありきで、やっとだ。だから……ありがとう」
嫌味ったらしいだろうかと心配しながら、頭を下げる。いつか言われた、誠実さも劇薬だという言葉がふと頭をよぎる。こういうところなのかもしれない。もしかしたら傷口に塩かもしれない。それでもやっぱり、今は財産になることを信じて、言葉にせずにはいられなかった。
「あいつの願いは絶対叶える──とか、胸張って言えたらいいんだろうけど、正直自信はなくて。情けない話だけど……でも、あんな苦しそうな顔は二度と……いや、極力……できる限り! させない……ようにするので……もしもの時はどうかよろしく……」
結局何ひとつ言い切れていないのだが。しかも何も返事ないし。めっちゃ不安なんですが。
「……顔を上げて」
ややあって、すごく控えめな反応が返ってきた。何かを押し殺しているような平坦な声が、不自然に鼓膜を刺激する。
まさか怒っているのか……なんて胃を痛めながら恐る恐る顔を上げると、そこには──
「ほんっとキミは飽きさせないよねぇ、響君」
人のことを嵌めて嘲笑う悪魔が二人いた。
「なっ、おま……っ、最低だなおい! しかも不仲ぶってたくせに普通に仲良いじゃねぇか!」
「こういう時ぐらいはね」
「別に口裏合わせてたわけじゃないのよ。こいつが勝手に寄ってきただけで」
「だって面白そうだったから」
「ほんとお前ら……悪魔……」
あまりの羞恥に熱が篭る。赤く染まっている予感のする顔を覆ってしゃがみ込もうとすると、ふいに腕を掴まれて引っ張られた。顔を隠すこともままならないどころか、無理に立たされた上に前に引き寄せられているので体勢も崩れる。まるで最初のあの朝のようだ。体重の預けどころを失って、頼るべき支えがその腕しかなくなる。
……もっとも、確かあの時は自力で走り出せていたはずなのだが。
「だーれが苦しそうな顔してるって?」
悪戯っぽいその声につられて顔を上げた瞬間、妙な感慨が胸の中を熱く満たした。
「……ったく……お前はあぁぁ!」
そんな顔、いつできるようになったんだ。
「泣かないでよ、さっきから泣いてばっかじゃん」
「泣いてねぇし! まだ! まだ大丈夫だから!」
「なんかどっかで聞いたことのあるやりとりだよねぇ?」
くつくつと笑う白銀の悪魔は、隣に立つ黒衣の悪魔にも意味ありげな視線を送る。
「キミたちさあ、僕のために泣いてはくれるくせになんで否定ばっかりすんの? 寂しいんだけど」
嘘つけと内心で毒突く。残念なことに声に出してやれないのは、今喉を使ったら声が裏返る自信があったからだ。
その代わりにと心の中で思いきり答えた言葉と、ルーラが発した言葉は偶然にも全く同じだった。
「そんなの、認めたくないからに決まってるでしょ」
……そして、負け惜しみのように付け足された一言すらも。
「っていうか、別に私は泣いてないから。勘違いしないで」
そんな見え透いた俺たちの強がりを、彼は笑って受け止める。
清々しく、優しく、当たり前のように受け入れる。
「全く、素直じゃないなあ」
そうして長い長い夜が明ける。遠くの方から柔らかい朝の日差しが差し込み、それよりも近い地平では、黄金の魔法陣が廻っている。
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