第24話

「──何を勝手に喋ってるんだ?」

 果たして、英雄はそこにいた。魔物状態の彼が得体の知れない魅力を司っていたとするなら、今の彼は静かな憤怒の化身だった。明確な怒りを以って、彼は鬼と化していた。

 やめましょうよと縋りつく家主を少しの視線の移動で射竦めると、カルドは躊躇なく部屋に踏み入り、ベッドの前で歩みを止めた。その存在感に反して、動作を止めた彼の佇んだ姿は幽霊じみていた。鬱血の代わりについたであろう、黒ずんだ索条痕が生々しく、さっきの出来事が幻でないことの証明になっているのが皮肉に映る。

「いい加減なことを吹き込むな。余計な手心を加えるな。……言ったはずだよね? 僕は死にたいんだよ。他の誰にも迷惑をかけないためにキミにだけ迷惑をかけることは確かに謝った。でもオーダー通りに動かないのは話が違う。違反も違反だ。そうだろ? 僕がキミに頼んだのは死体の処理だ。この身体を悪用されないために他でもないキミに頼んだんだ。なあ、どうして僕は生きてるんだよ。なんで自我が戻って魔力まで増えてるんだよ。……この胸に埋まった魔力結晶、天界からの支給品だろ? それ以外に入手方法なんか存在しないんだから。譲渡は禁止、破れば厳罰が下る……そんなに苦しんで死にたいのか?」

「! それって……」

 炎に包まれた拳に握られていた、宝石の輝きを思い出す。魔力結晶──悪魔狩りとしての活動に天界から支払われる対価。それをあいつの体内に直接埋め込むことができるのは、銀に魔力を伝導させ、水銀に変化させられる限られた能力の持ち主だけ……熱も然りだ。

 恨みがましく向けられる視線を、ルーラは正面から睨み返した。一方的に振るわれる怒りの炎にも焼き尽くせないほどの決意が、その瞳には宿っていた。

「私はあなたの背中を追いかけてここまできたのよ。この立場も、強さも──全部あなたが作り上げた道を辿ってきた結果。無茶な歩みを続けて必ず倒れる──その瞬間のあなたをこの手で支えるために、私はここまで歩んできたの。私の勝手な努力よ。……だけど、だからこそ──私が勝手に積み重ねた時間だからこそ、あなたに否定される謂れはない」

 静かでまっすぐな覚悟に、息を呑む。こういう人が、正しいしるべになるのではないかと思った。選ばれるべきは彼女のような揺るがない信念と覚悟を持った人なのであって、簡単に溺れて、思い通りにされるような人間など相応しくないのではないかと。

 ただ俺が人間であるというそれだけの理由で、彼女の純粋な想いが二番手になるのはおかしいのではないかと──そう思った。

 それでも彼女は、大事にするべきその感情を過去形にする。

「私はあなたが好きだったから」

「…………そう、か」

 ともすれば言われ慣れていそうな台詞でもあったけれど、同胞から疎まれ続けてきた彼にとっては、その純粋な言葉は初めてに近いものだったのかもしれない。彼はただ静かに、そして残念そうに、視線を落とした。たぶん彼は、俺と同じように、愛情の正しい受け取り方を知らない。

「すまなかった。……でも、これっきりにしてくれ。僕と同じ道だけは辿ってほしくない」

 それから疲弊しきった瞳をつと滑らせる。映っていたのは、俺だった。

「響君、」

 俺はその呼びかけに、どう応えるべきかわからない。

「唆したりして悪かったね。全部計算だったんだ。自分で死ぬにも、魔物になるまでしか悪魔にはできないから。魔物になっても消えない願いはキミへの感情だけだった。だからキミを利用して、誘導して、僕を殺させようとした。……賭けだったけれどね。何せ意識は飛んでるわけだし。でもそれなりに上手くいっていたみたいで、……」

 戸惑うみたいに視線を彷徨わせた先にある言葉は、「よかった」なのだろうか。

 だとしたら、それを躊躇うのはなぜなのだろう。この期に及んで冷酷な言葉ひとつかけられない彼の身勝手な甘さは、いっそ殺意すら湧くほどに残酷だ。

「貰った時間は大事にするよ。もう自分から死のうなんて考えないから。……どこか遠くに行く。生きていくだけならきっと、困らないから。正気を保つのには慣れてるんだ。いずれ力尽きて研究材料にされるかもだけど……流石にもう、疲れたな。何も考えたくない。だからまあ、もし人員動かせるって話になったら助けてくれると嬉しいし、できなかったら、その時はその時で。……くれぐれも響君のことだけは頼んだよ。僕を直接狙うより先に命を狙われたんだ、その事実がある以上、人間の安全を守る義務があるキミたちの護衛対象にはなるだろうから」

 悪魔狩りの仕事のなんたるかをよくわかっている口ぶりでそう言うと、彼は誰に向けるでもなく小さく手を上げて、踵を返す。それからドアの横に立って事の成り行きを見守っていた藤沢に、「キミはいい魔導士になれるよ」と声をかけた。

「キミの魔法陣にはしてやられたからね」

 だが、藤沢の様子がおかしかった。最初はほんの違和感程度だったものが、次の瞬間に確信に変わった。

 藤沢生狛は良質な魂の持ち主だ。悪魔にとっての「質のいい魂」とは少し角度が違うかもしれないが、俺は藤沢の魂のよさというものを、彼自身の「善さ」そのものだと解釈している。

 だからこそ、その時の藤沢が俺の目には異質に映った。

「──お褒めに与り光栄です」

 俯き加減でそう答えた藤沢の口元は──悪趣味に笑っていた。

 それは悪意の笑みだった。

 直後、藤沢の手が去り際のカルドの腕を掴んだ。その手は微かな光を放ち、次第にその威力を強める。やがてバチバチと耳障りな電流の弾ける音すらも、隠さなくなった。

「っ、リクリス──」

 目の前の危険に息を呑んだカルドが、目の色を変える。完全に不意を衝かれていた。防御にも攻撃にも手が回らない。ただただ驚きに目を見張り、数歩後ずさろうとするのが関の山だった。

「では貴方に認められたこの力で、今度は貴方を殺すとしましょう」

 藤沢生狛の声帯で、藤沢生狛のその腕で、リクリス・ウィートが凶器を向ける。掴んだ腕を思い切り引き、反対の手刀で心臓を貫く。

 ──そんな未来が見えたから、俺は無心であの時の記憶を呼び起こしている。

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