6話

 決意を固めて迎えた昼休み終了一五分前。オレは菅平との約束どおり、デンの扉の前に立っていた。

 バカ真面目すぎると自分自身でも思う。いっそのことアイツの言うことなんか無視して、昼休みの始めからデンに来ればよかった。しかしそうすることで変に反感を買い、高城先輩に危害があるのはもっと嫌だった。だから単純に、中学時代の体育会系部活で存分に染み付いた『五分前行動』を遂行した。

「どう、しようか……」

 だが、オレは扉を目の前にして困惑していた。

 デンの木製扉の向こうから室内の音がうっすら聴こえてくるんだが、なんだろう……こう、なんだかいかがわしい声がしている。種類的には、つい身体の一部が硬直したり赤面してしまうようなやつだ。

 それは別に『響き渡っている』というわけではなく、扉の前に立ってうっすらと聴こえてしまって「え?」ってなる程度だ。だからノックをしたくてもなんだかはばかられてしまって、赤面の曖昧な表情で立ちすくんでいるというか。

 それ以前に。

 がこんな私立のおジョーサマおボッチャン高校で有り得るわけ? だって仮にも『あの』慈み野学園高校だぜ? 高い空の下、広い芝生を駆ける男女が爽やかな笑みで笑い合う光景がオープンスクールのポスターになっているような、そんな高校だぜ?

 それがなんだよ。人気ひとけがないとはいえ学校の中だぞ。モラルってもんはどこに行った? いち教室の中で色欲を貪るようなヤツが在校生の中にいるっていうのか?

「まさかだろ、アホ、オレ」

 言い聞かせるようにひとりごちて、反して中から断続的に聴こえる『我慢しているような』なまめかしい女声が、秒毎に鮮明に耳に届くような気がした。

「う……」

 気味が悪くなった。胃に詰め込んだ昼飯が戻ってきそうだ。身体の一部が本能に従順に硬直したことを恨めしく思った。

 カラのえずきに耐えきれずしゃがみ込んだとき、はたと嫌な考えが左から右へ突き抜けた。

 もし『そう』だとしたら、こんなところでオエオエやっている場合ではない。ゲホゲホッと咳をして吐き気をいなし、奥歯をきつく噛み合わせる。

「すんません菅平先輩いますよね?! さっきの約束どおり来ましたけどッ」

 無遠慮にダンダンとデンの扉を叩く。ノックなんて優しい感じじゃない。握りしめた拳を連続で叩きつけている。

 かけた声だって怒気をまとったものだ。「おい」とか「開けろコラ」とか言ってるわけじゃないし、そもそも現時点でぶち破らないだけオレの冷静さを褒めてほしいくらいだ。

「わーったよ、ったく。ハイハイ」

 いかがわしい声が止み、のらりくらりとした特徴的な男声が返ってきた。間違いない、菅平だ。

「今開けてやるから、大人しく待ってろよぉー?」

 なんとも言えない渋面じゅうめんで扉を睨みつけていると、六〇秒は悠に超えてようやくデンの扉が開いた。それも、そろりそろりと、少しずつ。

 掌一枚分の幅だけ扉を開けたのは、高城先輩だった。どうやら胸騒ぎが的中してしまったらしい。オレは胸をえぐられる心地だった。

 よく見たら、制服の胸元に常に付いていなければならないリボンが外れている。あの綺麗な黒髪だってちょっとボサついているし、しきりに制服上衣の裾を引っ張っているところから察するにそれを脱がされていたことは明白だ。

「た、タケルく――」

はしっこにけててください」

 頭にグラグラとたぎるような血がのぼったオレは、高城先輩が避けたのを確認してから扉の中へ入った。

 デンの窓辺の遮光カーテンは閉められている。その隙間から漏れ入る陽の光が室内のホコリをチラチラと照らしているのが見える。電気を点けない理由は単純だ、雰囲気作りしか考えられない。

「やっぱちゃんと来たじゃん、後輩クン」

 オレは後ろ手にダンと強く扉を閉めて、いやしいあの笑みをした菅平と対峙した。

 だだっ広い室内中央にぽつんとひとつある机。そこにヤツは浅く腰掛けて脚を組んでいる。教室の隅には古いテレビ、スプリングのいかれていそうなL字型ソファ、そして壁に備え付けの黒板があるが、それら以外の備品は何もない。室外も室内も寂しい雰囲気だ。

「アンタなぁ、高城先輩に何やってんだよッ!」

「何って。ひとつしかねーじゃん、ガキじゃあるまいに。鈴はこういうことが好きなんだよ。なぁ、すーずっ」

 コテン、と首を傾ぐ菅平。オレの向こうの高城先輩へ絡め捕るような視線を向ける。

「んなわけねーだろっ。先輩あんなにびくびくしてんのに」

「そりゃびくつくだろ、急にテメーが押しかけてきたんだから。あれ? 約束よりちょっと早いな。もー、だから早くてもダメって言っといたのになぁ」

 腰掛けた机から軽快に下りて、のったりのったりとこっちへ向かってくる。反射的にオレは高城先輩を庇うように、一歩二歩と菅平へ向かっていく。

「鈴からも言ってやれよ。俺は鈴のことを好きにしていいことになってるって。せっかくテメーに教えるために時間作って、こうやって先に準備してたんだぞーって」

「準備? 何言ってんだ、テメーが一方的に好き勝手してただけだろ! それに先輩は物じゃねぇって話さっきもしたよな? 誰だろうと先輩のこと好き勝手していいわけねぇんだよ」

「付き合ってんだもん、俺と鈴。だから合意の上のハ、ナ、シ」

 鼻先が向かい合って、互いに立ち止まる。

「ふざけんな。仮に付き合ってたとしても学校内でこういうことすべきじゃねーのくらいもうわかれよ」

「エッチなことすんの好きだもんねぇ、鈴は。俺に裸見られるのも、触られるのも、全っ然嫌じゃねーんだよねぇ?」

「嫌がってたに決まってんだろ。ガタガタ震えるくらい相手を支配して強要すんのなんか強姦罪だぞ」

「わあ、いろんなことよぉーく知ってるんだなァ、お前。見かけよりバカ正直でキショいわ」

 薄暗がりの中のニタァと深まった笑みを見た途端、腹に強烈な一打が加えられた。みぞおちに一発グーパンを入れられたらしい。理解するまでに時間がかかってしまった。

「うっ、グポァア」

 ダメージもそこそこに膝から崩れ落ちたオレは、さっき我慢した吐き気がぶり返して、その場に胃酸にまみれた内容物をぶち撒けてしまった。

「たっ、タケルくん!」

 駆け寄ってくる高城先輩を背中で感じながら、本音は来ないでいただきたいと思った。こんな状況だが、好きな相手に胃酸臭を嗅がれたくはないし、いくらなんでもこんなの格好悪すぎる。

「へーえ、タケルくんっつーの、お前。クハハッ」

 声を上ずらせて、菅平がほくそ笑む。咳き込み、汚れた口元を覆いながら、オレは精一杯で睨みつける。

「鈴蘭センパイは、俺に知られないように一生懸命テメーの名前隠してたのになぁ? 結局言っちゃったよ。アハ。無駄な努力オツカレサマァ」

「て、テメェ……菅平ぁ」

「せ、ん、ぱ、い。だろ? ちゃんと敬えよ、歳上なんだから。部活で何学んでんだよ?」

 ガツと爪先で右肩を蹴飛ばされ、後ろに転がるオレ。ヤバい、そっちの肩は怪我しちゃマズいっつーのに。

「いいか。テメーが好きになった高城センパイは俺の『彼女』なわけ。近付くとこういうことになるから、よぉく覚えとくよーに」

「……ざけんなよ」

 地面に転がった衝撃はなんとか背中で受けて、ギリギリで右肩を守る。高城先輩が身を起こしてくれたけれど、同時に自分のみじめさを痛感した。

「あ、そうそう。そこのきったねーゲロも早く片付けろよ。高城センパイの大事な大事な部室なんだからなァ、ここ」

「その大事な部室でっ、アンタは先輩を――」

「もうやめてっ!」

 荒らげたのは高城先輩だった。震えた声はところどころ裏返っている。

「す、菅平くん。あとは……あとは私が、ちゃんと言っておく、から。だからもう、暴力は……」

「ほらみろタケルくん。鈴、こんっなに悲しんでるだろーが。はぁ、かわいそーに。誠心誠意謝ってやれよ?」

「もうわかった、から。もういいよ、だからもうこれで……これで解散にさせてください」

 そう言ったあと、高城先輩は細く揺れる声で「お願いします」と菅平へ頭を下げた。

「あとは……あとは全部、ちゃんとやっておきます。だから、だからその」

 こんな姿を間近で見せられて平気なわけがなかった。自分の不甲斐なさに下顎が震える。

 大体、先輩が謝ることじゃない。そもそも何に対して、どうして謝る必要があるんだ? 理不尽極まりない。

「いいよぉ。俺優しいから、鈴が今日の部活休んで俺と一緒に帰ってくれるなら、コイツのクソ生意気な態度も許してあげる」

「許して『あげる』、だと?」

「そんで今の続きしよー? させてくれるよね? ね、鈴蘭ちゃん」

 イラァッとしたオレ。低くて小さい声が怒気に染まって流れ出る。高城先輩の腕から身を起こしてヨレヨレと立ち上がり、菅平を睨みつけた。

「高城先輩が謝ることじゃねーし、オレを許す許さないって話でもねーし、高城先輩を性欲の捌け口にしていいわけねーだろッ。一番謝んなきゃなんねーのはアンタだ、菅平ッ! 高城先輩の平和乱してんだからアンタが謝れ!」

「おうおう、そんな怖い顔しちゃって。ヤダヤダ、鈴蘭センパイに嫌われちゃいますよォ?」

 ダメだ、全然通じない。ビシッと指した人差し指が虚しい。菅平は顎を上げて腕組みをした。

「そもそもテメーが鈴に近付いてくるからこんなことンなってんの。鈴は俺のもの。みーんな知ってる。だから鈴を好きにしていいのは俺だけ。大事な鈴に近付くヤツは俺が全員ブチのめすって決めたんだよ。わかる?」

 そのままニタァと笑みを残して、くるりと背を向け扉へ向かう。

「二度目はねーから。いいね、タケルくん?」

 デンの扉を引き開けながら、横顔でそう告げた菅平。間もなく扉がバタンと閉められて、耳鳴りがするほどの静寂がデンの中に落とされた。

「……タケルくん」

 閉められた扉を見つめていたオレはその場にヘナヘナと座り込んだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ほんとに、ごめんなさい……」

 ただそう繰り返す高城先輩の細い声と、校内に鳴り響くチャイム。それらを聴きながら、手始めに汚物を片付けなければとうなだれた。


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