百代の夢幻
蒼月さわ
第1話
最期だった。
いまや軍勢が館を取り囲んでいるのがわかる。平泉へ共に落ちのびた家来たちは、奮闘の末に討ち死にしたのだろう――
つい少し前に、別れの挨拶をすませて立ち去った黒装束の大男を思い浮かべて、持仏堂に籠もっていた義経は、法華経を読み終えると立ちあがった。約束したとおり、すでに三途の河で待っているだろうか。あの男のことだから、薙刀を逆様にして杖にして、仁王像のように厳めしく突っ立ち、己を待ちわびているに違いない。
義経はくっくと笑った。あとは自分も死ぬだけである。
部屋の片隅では、先に御簾のなかで妻と子供が死んでいた。鎌倉にいる義経の兄の命令で嫁いで来た河越重頼の娘は、自らの死にも無言でただ手を合わせていた。その傍らにいた幼子は、膝の上で両手をおいて正座していた。
義経はその亡骸にしばし目をかたむけた。薄暗い床の上で永世の眠りについた妻は、ようやく安堵しているのかもしれない。 京の都で初めて顔をあわせたとき、家への帰り道を失くした迷子のように、途方に暮れていた。それでも鎌倉へは帰らず、最期まで共にした。離縁もできたというのに。
――人の命運など脆く儚いものだ。
義経は自分の幼子へも心を寄せた。姫君も己の下に産まれなければ、母の衣の下で亡骸になることもなかっただろう。舌足らずな口でよく甘え、自刃する前にも「どこへゆくの?」とあどけなく母へ訊いていた。
――許せ。
義経は亡骸から目を逸らし、懐に手を入れた。取り出したのは短刀だった。
幼少の頃、鞍馬寺の別当から与えられた護り刀で、名のある刀鍛冶が願掛けのために鞍馬寺へ奉納したものだという。それを別当が願い受けだし大切にしていたが、幼かった義経が鞍馬寺へ来たおりに、護り刀として授けたのだった。以来、義経もこの短刀を常に離さず、西国での合戦でも鎧の下に差していた。
護り刀の鞘尻は唐草模様に籐を巻き、竹輪を互い違いにあしらっている。柄には
義経は護り刀を撫でるように握った。懐に仕舞っていたため、生ぬるい手触りがする。これを手にすると、昔の
握る手に力がこもる。詮無いことだと思った。なにゆえに鎌倉の兄に疎んじられたのか、もはや知る術もない。平家に敗れた父や兄たちの無念を晴らし、源家を再興するため、兄の代官として東国の武士団を率い、平家軍と戦った。そして滅ぼした。若い頃に鞍馬寺で一念していたとおりになった。金売り吉次に誘われるまま奥州へ向かい、兄が伊豆で旗揚げしたと聞くや、秀衡のとめる手を振り切って兄の元へ駆けつけたのも、その願いからだった。
それが如何なる
――兄は自分が憎いのだろう。
頼朝と対面したのは富士川の陣で、互いに涙を流して喜んだ。女人のように優しげな
義経は自害を決意した。
「兼房はいるか」
妻の乳母子である十郎
兼房、と繰り返した。
すると、その声に返事をするように、目前で火焔がひとつ
義経は目を見張る。たちまち幾つもの火焔が浮き出て、義経を取り囲んだ。それは小さな火の穂となって、その周辺だけ濁ったような明るさになる。
義経は用心深く護り刀を構えた。火焔はまるで人魂のようで、空中をゆらゆらと漂う。さらに奇妙な物音が、すぐそばから聞こえてきた。低く小さく、小さく低く。細波が砂原をわずかに濡らしては引き、また濡らすといったかすかな騒めき。何かと訝ったが、それが人の話し声だと、やがて判った。
義経は慎重に辺りを探った。ひとつ、ふたつ、みっつ……何百もの声が重なりあっているように聞こえる。
もうあの世へ迷い込んでいるのだろうか――義経は何とか自分を落ち着かせようとした。
ささあっと風が這うように吹いた。だが火焔は揺らぎもしない。
義経は躰を強張らせて、ゆっくりと辺りを見回した。妻戸は閉めきったままで、人が押し入る気配もない。真夏の夜更けの息苦しさにも似た空気が覆っている。
「怖いか」
ふいに、耳元で誰かが囁いた。
「怖いか、遮那王」
「何者だ」
義経は鋭く誰何した。すると、腹の底から汚物を吐き出す音がした。
「お前をよく知る者だ」
枯れ木のようにしゃがれた老爺のものだった。義経はその声を辿るように首を動かした。どこかで聞いた覚えがある。だが、思い出せない。
火の群れは不気味なほど赤く、妖しかった。満月のような輪となり、義経を取り巻いている。ひとつひとつが、暗い闇に浮かんでいる。それは義経に平家の赤い旗印を思い起させた。最期の戦いとなった壇ノ浦。多くの旗が海へ投げ捨てられ、まるで紅色の木の葉が散らばっているかのようだった。艘の上からそれを眺めていた義経には、海の底に沈んだ平家の者たちが、この真っ赤な海を自分へ見せているような眩暈を覚えた。どうだ、浪の下まで追って来られるか、と。
一瞬、火焔が赤い旗印に見えた。
「……この怪異はお主の仕業か」
義経はたじろいだが、都にその名が轟いた武将らしく、
「儂は今から自害する、何用だ」
すると、義経の耳元で呵々と響いた。
「我は、咎人であるお前を見に参ったのだ」
「何だと!」
義経は血相を変えた。白い面が怒気を含んで赤くなる。
「咎人とは聞き捨てならん!」
「お黙りなされ」
しゃがれ声は冷静に言い放った。
「神々の
義経は叫びかけた口縁をそのまま閉じた。息をひそめて、右に左に視線を揺らす。
ふと、遮那王と呼ばれていた頃の記憶が甦った。ある時、鞍馬寺に帰ろうとして道に迷った。山道だった。もしくは迷ったふりをしたのかもしれない。今となっては判然としないが、稚児だった自分は夜になってどこかの谷間に辿りついた。木立が鬱蒼と茂る中に荒れ果てた社がある、ひどく薄気味悪い場所だった。朝になるまで動かないでいようと決めたが、まるで落ち着かなかった。朝日が昇って急いで逃げ出したが、現し世ならざる霊域に迷い込んでしまったかのような畏れを幼心にもった。
……大勢の眼が見ている。
義経は護り刀を引き寄せた。あの時と同じように、手のひらが汗ばんでいた。
「神々だと」
「左様、この地を護っておられる神々だ」
「神仏が、なにゆえに儂の前に現れる」
「お前をどうするか、決めるためだ」
「なにゆえだ」
「咎人だからだ」
二度言った。
「お前の咎は、この地へ参ったことだ」
義経はひとつ息を呑み込んだ。喉がからからと渇いている。だが、そのまま畳上に腰を下ろし、足を組んで端座した。手前に護り刀を置いて、毅然と顔をあげる。
「姿かたちも判らぬ霞に問うようだが、儂がこの地へ参ったことが咎だと申すのか」
「左様」
「儂はこの地で育った。この豊かな平泉が、儂の故郷だ。故郷へ帰ってきたことが咎だと申すのか」
「お前は追われておる。鎌倉の男はお前を追って、この地を攻めてくる。それはお前の咎ではないのか」
「儂がこの地をいくさ場にすると言いたいのか」
「左様」
しゃがれ声は、相変わらず義経の耳近くから聞こえてくる。
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