Emerald Tablet 1984

磯崎愛

Ⅰ 「夢語り」

 【そして、この物語を記述するにあたって、わたしはそれをためらわずに語りたい。夢の記述は完全に文学の伝統に含まれているからである。】

          

 だって、ほんとにこういう夢を見たんだもん! 

 わたしは十四才の少女でこの夏休みにジョージ・オーウェルの『1984年』を読むぞと意気込んでいる。何故ならその年がまぎれもなく一九八四年だからで、夢のなかの父親は現代文学を代表する小説家トマス・ピンチョン(!)、歴史に残る長編を発表して以来まるで書けなくなっていて、おまけに母親はわたしを生んですぐに出て行ったらしい。母親のくだりは、ピンチョンの『ヴァインランド』の筋書き通りなわけで、この小説は一九八四年のアメリカが舞台のハチャメチャなSFで、ぐうたらな父親と暮らす十四才の少女プレーリィの、母親探求の旅がメインテーマのひとつに取られている。

 ところが、夢を見ているわたしはそんなことにも気づかない。父と娘の暮らしは祖父の遺産によって支えられているようだ。本が堆くつまれたマントルピースの上にある肖像写真のその顔は、どうみても立派なひげをたくわえてそっくりかえったマーク・トゥエインそのもので、ひと癖もふた癖もありそうな一徹者らしい憤然とした表情で、凝りにこった金の額縁におさまっている。

 なぜ夢だと気づかなかったのか恥ずかしくなってきた(わたしは夢のなかで辻褄が合わないと、あ、これ、夢だと閃いたりするのです)。 

 さらにいうと、わたしの名前は本名でもペンネームでもない「翠子」で(これは先日、尾崎翠について友人から話を聞かせてもらったからにちがいない)、わたしはその「子」という音の字余りな感じと、いかにも小説の主人公として使われそうなもったいぶったようすがご不満なのである。

 そして名付け親のピンチョンであるところの父親はすました顔で「そりゃあ小説家だから」とこたえる。わたしは猛然と反抗心を燃やして「ずっと小説なんて書いてないくせに!」と声をあげ、すっかりしょげてしまった父の背中をみるといたたまれなくなり、お茶いれてあげよっか、などと自分が愛されていると信じきっていなければ絶対に言えない小生意気で可愛らしいことを口にして、顔面土砂崩れ状態の父親を眺め、あたしってなんていい娘なんだろうと悦に入り、パパなんてチョロイね、と冷静に判断を下すのであった。

 ちなみに、わたしは生まれてこのかた父親を「パパ」だなんて呼んだことはない。

 ここで、父親の造型を語るべきだろう。ピンチョンは極端な人見知りで、いわゆる「謎の人物」と思われている。あわてて付け足すが、このピンチョンは現実世界のピンチョンだ。写真は一枚しか世に出ていない。ここでは敢えて語らない。むろん、わたしの夢のなかの父親であったトマス父さんの顔は、それとまったく似ていない。鳥の巣頭に丸眼鏡、オタクくさいというか、さいきん知った英単語でいうとnerd(ナード、オタクという意味だそうですよ)だろう。さらにはこの一年くらいで下腹がゆるくなりはじめ、だらしなさともいうべき自身の肉体への寛容が腹回りに漂っている。娘であるわたしは父が世間並みではないことにはすでに了承があり、また納得もしていたのだが、友人たちのお父さんが「大黒柱」とか「働き盛り」とかいう立派な看板を背負っていることでかもしだす厚かましさに、強烈な羨望に裏打ちされたやむにやまれぬ抵抗感があったので、父親の、偉ぶったところのない文学青年くさい頼りなさをこころひそかに愛していた。よって、風呂上りのビールに制限を設け、せめて太ったりだけはしないでほしいと切に願っていたのだ。

 こんな夢を見たのは締め切りのプレッシャー以外の理由もある。なにしろわたしはピンチョンの『ヴァインランド』の主人公、プレーリィと生年月日が一緒なのである。ここであの本を読んだひとは、プレーリィの生年と生まれ月は記されていたけれど、日にちは書かれていなかったと反論くださることだろう。たしかに、書かれてはいないのです。でも、自身がものを書く人間として、小説家の生理というものは想像できる。プレーリィが牡牛座であると明記されていること、そしてピンチョンが一九三七年の五月八日生まれの同じく牡牛座であることをもってして、あの少女は一九七〇年五月八日生まれであると言い切ってもよいと思う。小説家のナルシズムというのは、ある種の(それとも文字通りの?)ヒロイズムとして発露されるものではないかと思うので。

 もうひとつ、この夢の契機は、わたしがレイフェル・A・ラファティの姪っ子になりたいと強く切望していたからに違いない。翻訳者・大森望さんいわく「最高のSF作家」であるラファティは、わたしの人生を変えてくれた。言いかえれば、わたしの「小説」を変えてしまってくれたのだ。不満タラタラな言い種は、いまだわたしが「自分の小説」を満足のいくような形でものしていないという表明であって、彼への恨みゆえではない。

 そのラファティも登場した。このあたりから、夢の進行に加速度がつく。おそらくどんどん覚醒に近づいていたに違いない。ラファティおじさんはわたしの母親の弟で、小説は書いておらず、機械メーカーに勤めていた。このへんは四五才まで電気技師であったという現実のラファティの暮らしぶりを遵守したものであったらしい。季節の変わり目にふらっと現れては、学校はどうだとか背が伸びて大人っぽくなっただのという一切の社交辞令もなく、とびきり面白い話をしてくれた。お小遣いはたまにしかくれなかったけれど(これは、実はけっこう期待していたのだが)、ボストンバッグに本を乱雑に詰めて運んできて、おじさんの帰ったあとのわたしは授業中であろうとお風呂の中であろうと関係なくその本を読み耽り、めったに娘の生活態度に口に出さない父親が、ご飯も食べずに本ばかり読んでいるのでついには怒り出すことも幾度かあった。

 もちろん、食事なんてそこのけで本を読んでいるのは当然のこと父親本人の癖でもあり、わたしがそのことをもっともらしく学級委員長らしい生真面目さで糾弾すると、むっつりとした顔をしてコドモは駄目だと言い張って、まことに大人らしくない態度に出ることもままあった。そしてまた、おじさんはこうした父娘のいざこざなど知らぬ顔で(もしくは知っていて?)、またしこたま本を運んでくるというその繰り返しが劇中劇的に演じられていた。

 この、夢の「時間」の奔放な振る舞いを再現する能力が自分にないことがとても悔しい。さらにいえば、すでにして夢で見たものとして固まってしまった「絵」を、小説の背景として落とし込み、整理し、一定の「世界観」に移し変えることも困難を極めた。ポストモダン文学というものであれば可能なのだろうがわたしには無理、諦めた。なにしろ締め切りは迫っているし、間尺が合わない。といいながら、この夢をみた朝のわたしは書きたいという欲望にはちきれんばかりに膨らんでいた。 

 

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