第59話これが本当のセクハラ

 ある放課後。校舎裏のベンチに座って、ハルトは眠気をこらえていた。


 休日は早朝からの走り込み、筋トレ、水鉄砲に素振り。午後から座学、再び水鉄砲、集中力を高めるため聖なる滝に打たれ、夜遅くまで座学。学校がある時も出来ることは続けている。聖水に加えられた癒しの効果で身体の痛みはすぐに消えるが、やることの多さに精神的な疲労が溜まっているのかなぜか疲れた感じがとれない。


「あー……眠い……」


「情けないですわね。クロム様がどれだけお忙しい方かご存じ? わざわざ時間をいてトレーニングしてくださっているというのに不満をもらすなんて」

「それは本当にありがたいと思ってます」


 絶妙に距離を開けた隣のベンチで、瑠奈が呆れた視線をハルトに向ける。ハルトは頷いた。夜ハルトが寝る頃に地獄に向かい、起きる頃に天国へ来るという生活を繰り返しているクロムは、おそらく仕事にも一切手を抜いていないのだろう。しかも修行の合間に学校の宿題まで教えてくれるサービス付きだ。おかげでハルトは連休明けのテストで初めて満点を取った。


「シルヴィアお姉さまに翼が生えて、あなたは修行。少し会わないだけで状況は変わるものですわね」

「色々あったんですよ」


 ハルトはここ最近の出来事を、クロムの許可を取ってざっくりと瑠奈に説明していた。しかし魔王の存在と勇者の件は隠している。ハルトの修行は、水鉄砲を使いこなし、襲われても素早く逃げられるようにすることが目的だと瑠奈は思っていた。


「それにしても、先代に学ぶというのは良い考えですわね」


 瑠奈は考えるような仕草をした。肩に乗っていた黒猫が、優雅に空を散歩するように宙を歩いている。


「そういえば、わたくしも先代については何も知りませんわ」

「先代魅惑の悪魔ですね。似顔絵だけ見ましたよ」

「どんな方だったんですか?」

「えぇと……」


 ハルトは考えた。ここでうっかり色気のある美人とか言ってはいけない。ハルトは学ぶ男だ。しかし瑠奈はハルトをじっと見て、呆れた溜息をついた。


「……言いたいことはだいたいわかりましたわ」

「え? どうして」

「魅了を使いこなしていたのでしょう。ということは、とても魅力的な外見をしているのでしょうね」

「あ、はい。黒谷さんが言うには、挨拶代わりに魅了をかけるほど使いこなしていたと」

「クロム様に!?」

「いや効かないって言ってましたけど……」


 思わず身を乗り出す瑠奈に、ハルトは慌てて否定した。瑠奈は少しほっとした顔でベンチに座り直したが、やはりクロムの反応が気になるようだ。


「クロム様は何て?」

「あの……」

「構いませんわ。ありのままをおっしゃってくださいな」

「『あいつほど魅了を使いこなす悪魔はもう現れないだろう』と。褒めているような感じでした」

「そうですか……」


 ハルトは少し迷ったが、クロムの言葉をそっくりそのまま口にした。瑠奈はショックを受ける風でもなく、少し考えるように口元に手を当て、やがて覚悟を決めたように頷いた。


「わかりましたわ。貴重な情報ありがとうございます」

「いえいえ。とんでもないです」


 ハルトは慌てて首を振り、丁寧に頭を下げる瑠奈を見る。今彼女が着ているのは制服ではなく学校指定の体操着だ。決してセンスがいいとは言えないが、そんなものを着ていても彼女の優美さは少しも損なわれていないのだから不思議だ。両手や足首などあらゆるところに巻かれた包帯がとても気になるが、そこに突っ込む勇気はない。


「……それにしても遅いですね。浅黄先生」


 とはいえあまり見ていては失礼だろうと、ハルトはすぐに瑠奈から視線を逸らして校舎の角を見た。体操着を着て校舎裏に集合と言った本人がまだ来ていない。瑠奈がのんびりと青空を見ながら口を開く。


「まさか、生徒会に加えて同好会まで入るとは思っていなかったですわ」


 そう、わざわざ二人が着替えて集まっているのは、昔の遊び同好会の活動初日だからだ。ハルトはダメもとで瑠奈を誘ったが、意外にも彼女はハルトの誘いを二つ返事で引き受けた。よほど襲撃しゅうげきの件を悪いと思っているのだろう。負い目につけこんだみたいになってしまったが、これくらいはいいだろうとハルトは開き直っていた。


「水鉄砲が先生に見つかったのは半分は瑠奈先輩のせいですから。責任とってください」


「この程度で許していただけるのでしたらむしろ積極的に参加すべきですわね」


 瑠奈は立ちあがって水鉄砲をハルトに向けて構えた。国宝ではない。市販の、どこにでも売っているプラスチックの水鉄砲だ。中身は水道の水である。


「えいっ!」

「わっ! ……やりましたね」


 まさか本当に撃つとは思っていなかった。容赦ようしゃなく顔面を狙う水道水を避けきれなかったハルトは、袖で顔をぬぐって立ちあがった。


 すぐに水鉄砲を構える。しかしハルトが持っているのは本物である。瑠奈の顔が緊張感で引き締まるのを見て、ハルトはすぐに手を下ろした。


「なんてね。撃つわけないじゃないですか。もう敵じゃないんですから……」

「構いませんわよ」

「え?」


 瑠奈は今度はハルトの胸元を水で濡らした。意外な言葉に再び彼女の顔を見ると、瑠奈は自身の胸元に人差し指を当て、挑発的な視線を向けてきた。


「やってごらんなさい」

「えー……なんか嫌なんですけど」

「大丈夫ですわ。試してみたいのでぜひ」


 にっこりと笑う瑠奈に、ハルトはおそるおそる水鉄砲を構えた。


「……ちょっと弱めに行きますね」

「遠慮は不要ですわ」


 瑠奈の背に黒い翼が広がる。大きな盾を構えた瑠奈は、ハルトを見てにっこり笑った。


「さ。ここに向かってなら撃てますでしょう?」

「それなら」


 ハルトは水鉄砲を構え、今度は躊躇ちゅうちょなく撃った。銀色の銃身に白い光が加わり、水の矢が勢いよく盾へと向かう。


「……やはり威力が増していますわね」


 ぼそりと呟き、瑠奈はその矢が盾に当たる直前、それを後ろに放り投げた。


「っ! 先輩!? 何して……」


 盾を黒猫が回収していく。驚きに目を見開いたハルトの前で、瑠奈は丸腰で聖水を胸に受けた。


 ――――パシャッ


「……あれ?」


 ハルトは一歩踏み出した中途半端な姿勢のまま、瑠奈を二度見した。黒い煙があがらない。無傷である。


「大成功ですわ」


 瑠奈は嬉しそうに笑って、黒い翼を消した。


「どうして……」

「ここ最近、修行していたのはあなただけではありませんわよ」

「すごい! 頑張ったんですね」


 得意げに胸を張る瑠奈を、ハルトは手放しで褒め称えた。こんな短期間で水鉄砲が効かなくなるなんて、よほど無茶な修行をしたに違いない。おそらく包帯はその代償だろう。


「先輩も修行してたんですね。どんな事を?」

「そうですわね……まず聖なる頂を越え、聖なる滝に打たれ、聖なる湖に頭から……」

「よくわかりました! お疲れ様です」


 自分から聞いたにも関わらず、ハルトは瑠奈の言葉を途中でさえぎった。途方もない努力に涙が出そうだ。


「……でも、まだ足りません」

「え? もう充分では?」

「もっとより多くの聖なる気を浴びて、慣れなければいけませんわ」

こころざし高すぎません?」


 瑠奈の最終目標は天国だ。しかしそれをハルトは知らないので、不思議に思って瑠奈を見た。


「これ以上って何するんですか?」

「本来は天使のそばにいるのが一番なのです。聖なる気を蓄えていれば、人間でもいいのですけれど」

「なるほど……あ、浅黄先生とか?」

「あの男が聖なる者ですって?」

「勇者を目指してるって言ってたし、そうなのかなって」


 ハルトは知り合いの中でもっとも勇者に近そうな者を例に挙げてみた。自分が勇者修行をしていることは瑠奈には内緒だし、この機会に瑠奈が浅黄をどう思っているか聞いておきたい思惑もあった。瑠奈は、浅黄の名を聞いた途端に顔をしかめる。あまり好感を持っていないということが一目でわかる顔だ。わかりやすくて助かる。


「浅黄先生の話をしてそんなに嫌そうな顔するの、先輩くらいじゃないですか?」


「あら。顔に出てました?」


「はいとても。……先輩は、先生の事どう思ってます?」


「そうですわね……いて言うならば、純な心は善にも悪にも染まりやすいということですわね。あの男には思慮深しりょぶかさが足りないと思いますわ」


 瑠奈は少し考えた後で、意味深な事を言って眉を寄せる。ハルトがその言葉の意味を少し考えれば、思慮深さが足りないはブーメランですね、とのツッコミが入るだろうが、そうなる前に校舎の角から浅黄が小走りでやってくるのが見えてきた。狙ったようなタイミングの悪さである。


「ごめんごめんっ! 生徒たちにつかまってしまってね……と、もう活動していたのか」


 浅黄は二人の手にそれぞれ水鉄砲が握られているのを確認して、次に瑠奈を見て眉を寄せた。


「……水島君」

「はい?」


 普段より若干低く固い声は、生徒を注意する時のそれだ。心当たりのないハルトは首を傾げるが、浅黄はハンカチを瑠奈に渡しながら続ける。


「君は品がないね。レディの胸元を集中攻撃とは……こんな風に悪用するのなら、この同好会の活動はとても許可できないよ」

「……はい?」


 ハルトには、浅黄が何を言っているのか最初はわからなかった。しかし借りたハンカチで胸元を拭く瑠奈を見て、ようやく意味を理解する。


「ちょっ……え? そんなつもりじゃ……」


 瑠奈の胸元は、想像以上に濡れていた。白いTシャツが透けて肌に張り付き、黒いレースと小花柄が胸のふくらみを主張している。思わず直視してしまったハルトに、瑠奈はほおを染めて困ったように横を向いた。絶対にわざとだ。


「まぁ。ハルトさんったら……変態」

「へんた……って、先輩! 裏切りましたね!!」

「あなたが濡らしたのは事実ですわ」

「水島君。このあと少し話せるかな」

「誤解です先生!! っていうか僕も濡れ……」

「一緒に濡れたいですって? そんな……困ります」

「水島君!?」

「先生聞いて!!」


 ハルトの叫びが青空に響く。わざとらしく胸元を何度も拭く瑠奈と正義感あふれた顔で立つ浅黄に挟まれて、ハルトは人生最大のピンチは間違いなくこの瞬間だと確信するのだった。



        

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