8 ミフユ各種モウソウ〈今〉
車の後部座席でミフユの話は続いていた。
甘くしていないアイスカフェオレを飲みながら、コハルは横で話を聞いた。
——歩けなくなって。
整形外科に行っても原因不明で。
精神的なものかって入院をすすめられて。
そうだった。
とぎれとぎれに、今までの母との電話の内容をコハルは思い出す。
この春、ミフユの体調は絶不調だったそうだ。
その前の夏に続き、母のケアマネージャーさんから再度、コハルに連絡が入り、いよいよ遠距離介護となると覚悟した。
そして、今、秋。
1週間前に退院したところだという。話し合いにはタイミングがよかった。いや、ここまで引き延ばされたというべきか。
——お医者さんに、出たかったら、すぐ退院させるって言われて、1週間で退院させてもらったの! 精神病棟って本当の病人が入院するところだった。私は、ここまで病人じゃなーい! って。もう、入院はコリゴリ! あそこに入院するぐらいなら、家で静養するわ~。
コハルは聞くに徹した。ミフユの話し方は水道の蛇口をひねったみたいだ。止めれば止まるのかな。
——「パソコンの調子がおかしいんです」って何度も言ったら、モウソウ性——って診断されちゃって。だから、もうパソコンの調子がおかしいって、言わないことにしたの~。
コハルが姉の病名を、はっきり聞いたのは、はじめてだった。
モウソウって妄想か。
たしかに姉は。
このとき、ミフユはコハルたちの子供のころの思い出も話した。そうだったねということもあれば、たしかにミフユによって改変された思い出があった。
——コハルさんが小学生の時、お母さんに殴る蹴るされたこと、あったよね。お母さんの高価なシャンプーでシャボン玉遊びしちゃって。
そうだ。風呂場で母に、ひっぱたかれた。たしかに、あれはヒステリックだった。それが高価なシャンプーのせいというところが、庶民だ。
——私が、「やめてぇ。やめてぇぇ」と必死でコハルさんをかばった。
ん?
ちょっとクラっとした。
コハルの記憶の中の姉は洗面所にいただけだ。
姉は、ぼ~っと立っていて、ひっぱたかれて風呂場のつめたいタイルにころがったコハルを見ていただけ。
いつの間に妹をかばって、母に立ち向かった姉になってんだ?
「いや。ひっぱたかれただけだけど」と、コハルは訂正した。
それから、コハルの夫の10年だか前の転勤のことが不名誉な話になっていた。
——コハルの御主人が東京転勤になって、コハルが精神的に追い詰められて病気になって、「帰ってきて」と御主人に泣いて頼んだから、御主人は出世の道をあきらめて戻って来たんだってね。
「えぇと。ちがうけど?」
息子が小学生のとき、コハルの夫に転勤辞令が降りた。
そのころ、東京は地震の影響で脱出する人さえいたときだ。
そして、コハルは自分の転校経験から、おとなしめの息子が転校先でなじめなかった場合を恐れた。
それから会社側が家族で引っ越す者に住居として用意してくれたのは、海抜0メートル地域のマンションだった。
ひとまず、コハルの夫は単身赴任した。コハル夫婦は、息子の小学校卒業を待って合流しようと考えた。
いや、もう10年くらい前の話。
病気になったとすれば、自分の専門分野とちがう仕事、地方都市では考えられない通勤ラッシュと、その通勤時間に疲弊したコハルの夫のほうだ。
早い段階で信頼している上司に、「この仕事、自分には向いていません」と話したという。そうしたら、上司は、「それじゃ、家族のところに返してやるよ」と。(夫談のママ)
これは出世コースからはずれたといえば、そうなのか。
たしかに、行く先々で成果をあげる人が出世する、か。それなら夫は、そこから、はずれたのかもしれない。
だけどコハルは夫が早めに弱音を吐く人でよかったと思っている。
そういうことを、いろいろが落ち着いた後、はっきりと母には報告した。
コハルも在宅仕事の目途を立て、仕事先に、「東京に引っ越します」と告げたとたんに夫から、「そっちの仕事に戻る」と告げられ、あわてふためいたから。
息子の学校だって、公立に行くと決めて。なじめなかったら、そのときは私立に転校できるぐらい学力さえつけとけばと。(「東京の公立は荒れている」とぶった切るママ友がいて、非常にびびったのだ)
それをどうやったら、コハルが夫の出世の道を断ったと、そんな話になるんだ。
——お母さんから聞いた~。
そうミフユは言い切った。
母が何かを話したのはまちがいない。でなければ、コハルの夫の転勤のことをミフユが知り得ない。
すぐにコハルは母に「ミフユさんに、こんなこと言ったの?」と聞き取りに及んだ。すると、「そんなこと言うわけないじゃない」と返ってきた。
しかし、この人、ニンチ症なんだ。
言ったこと、やったこと、忘れるんだ。
それに。
モウソウする女とワスレル老婆、どっちの言葉も真に受けちゃダメなんじゃ?
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