入苑10
目が覚めて起き上がると身体も心もすっかり快調だった。
寝不足なだけだったのかもしれん。
昨夜の憂鬱をそんな風に軽んじながらコーヒーを淹れているとデバイスに受信。内容は想像した通りベルナールで、仕事の日程についてだった。
二日後か……また無駄に時間的な余裕ができてしまったな。
二日間、俺はまた暇な時間が与えられた。
その間讃美歌卿の屋敷を自由に使っていいとの事だったのでお言葉に甘え、アドベールの故郷を見て回る事にした。NCIの支部から車を取り寄せ走る事一時間余り。屋敷から離れていけばいくほどに舗装が崩れ、サスペンションが悲鳴をあげる悪路を進むと、下町へ出た。そこでは汚れきった肌をボロで纏う人々が虚ろな目をして歩いていた。
酷いものだな。科学技術は遥か先をいっているというのに、エニスの貧民街より不衛生に思えてしまう。
車を降りた俺がそう感じたのは周囲に浮かぶ機械油の汚れや、人工物質による汚損のためだったように思う。一歩踏み出せばぬかるんだ地表から汚水が泡立ち靴を黄土色に染め上げる。周囲からは汚物と汗と埃とオイルの臭いが複雑にブレンドされて臭気だけで脳が溶けそうだった。トタンと木材によって建築された家屋は例外なく浸食されており、生理的な嫌悪感を催す塗装を上から施されている。虫や鼠などが縦横無尽に行き渡り、時には人の足に噛みついたりしていて、世界に現れた地獄の一つだといわれても納得してしまうような有様だった。
元の景観を知らんが、元からこうだったわけではないだろう。まったく、尊厳破壊もはなはだしいな。
エニスのシュトルトガルドは機械化が進んでいたものの、伝統を重んじる都市であったから景観保持の意識が強かった。対してこのアドベールの故郷は讃美歌卿によって経済支配され全てを塗り替えられてしまっていた。その国へ住まう人間も築き上げてきた文化もそこにあった景色も一切合切破壊され、コストを掛けない粗雑な工業発展を遂げたのである。ここにいる人間は皆讃美歌卿が保有する工場で働き賃金を得て、讃美歌卿の提供する食料などを買い、収める税金を讃美歌卿に搾取されていた。国一つで形成された完全なスキーム事業は半分貴族の道楽といって差し支えなかっただろう。人間を、動物かなにかと同一視しているのだ。効率化、合理化を進めれば生産性も品質も向上する。それをしないのは、作業者に人間としての意識を与えないためだ。人は嫌でも環境に慣れていく。そこで生き残るために、生存するために、身体も考えも適合させていく。自由も権利も、人間らしい生活さえも取り上げられてしまったら、後はもう言いなりになるしかない。立派な奴隷の完成である。
こんな世界を救う事に意味があるのか。いっそ滅んだほうがいいのではないか。
そう思わせる程に救い難く、度し難い現状が目の前に広がっていた。それは考えないようにしようとしていた揺らぎで、自身の正当性への懐疑である。
世界を救う。人類を救う。生きている者達を殺させるわけにはいかない。そういう大義名分が霞むような人間の罪過を目の当たりにしているのだ。あまつさえ俺はそんな人間の手を借りている。俺自身がこの惨状を招いた諸悪の根源に与しているような気がして、如何なる意志も黒く染め上げられてしまったようだった。極まったのは街の奥でのでき事である。日の当たらない、入り組んだ場所に多くの青年が犇めき合い、無造作に揺れていた。何をしているのか覗いていると、汚染された泥の中で、集団が一人の少年を汚していたのだった。俺はあまりの光景に我が目と現実を疑った。どうしてそうなっているのか想像しようにも、頭が理解を拒むのだ。
「やぁ、兄さんも混ざるかい? 観光地価格になるけど」
いつの間にか俺の隣に立っていた男に声を掛けられた。男は嫌な目つきをしていて、腐った世界だからこそ生息できているような、肥溜めの住民だった。
「いや、いい」
「そう。ならボディガード付けてやるよ。この辺は危ないからね」
「……」
「言ってる意味、分かる? 俺達が守ってやるから金寄越せってこと」
「出さなければ、この場で俺は身ぐるみを剥がされてあぁなるのか」
俺はちらと、泥だらけの集団を見た。
「どうだろうね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべる男に、俺は金を渡した。その国で一年は遊んで暮らせる金額だった。
「おっと、兄さん金持ちなのかい?」
「NCIの局員だ」
「あぁ、俺達の金でダッチワイフを買おうっていう連中かい。どうりでいい服着てるわけだ」
「……」
「コンコルディアでは腰の動かし方を教えてくれるのかい? せいぜい、良い気持ちになれるといいな兄さん」
「……」
気が付けば俺は男を殴って、走り出していた。響く怒号と駆け抜けていく音。スラムの一画は完全に奴らのテリトリーである。無事生還できたのは、コアのナビゲートがあったからだ。
“どうにも不合理な行動をしますね。お金を払って追いかけられて、何がしたかったのですか?”
「うるさい黙っていろ!」
車を走らせながら、俺は先までの事を考えていた。侵略された国。この世の終わりを体現したかのような街並み。汚された少年。そして、あの男。
世界平和とは。あぁいう人種も受け入れなければならないものなのだろう。奴らとて一個の命。生きたいと願っている。それを排斥しての救世はありえない。だが、同時に、奴らによって苦しめられている人間も存在する。彼らは「どうして自分が」「死にたい」と考えているだろう。しかし、それでも俺は……
頭に浮かんだのはネストに住む人間達だった。
命とは別に、善悪と幸不幸が世界にはある。その狭間で、それでも世界を救いたいと願った。これは理屈ではなく、感情の話だ。
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