第83話 実は閉鎖的ではない、養護施設 5

 先ほどまで私は養護施設とその外部、言うなら国という背景を持つ組織体との外的関係を述べて参った。

 今度は、貴君の幼少期にも大いにかかわる、内的関係を論ずる。よろしいな。

 これを言うと貴君は虫唾が走るなどとお怒りになるかもしれぬが、避けて通れぬところなので、あえて述べて参りますぞ。


 養護施設は、社会に開かれた非閉鎖的な組織であり、場所である。


 この前提をもとに、論じて参ります。

 非閉鎖的な場所であるということは、本質的には、そこにいる子どもらは、外においても逃げ場のない環境ではある。貴君が以前自著で述べておられたが、まさに24時間、逃げ場のない環境というのは、社会的に見ても当たっておるのじゃ。

 よいわるいは、ここではさしあたり論ぜず、先に進めます。

 さて、非閉鎖的な場所にいるということは、それこそこの論争ではないが、公開性を持つ場所にいるということに通じる。

 とはいえ、その状況ではあまりに防備がない。なさすぎであろうがな。

 そこで、養護施設を営む側としては、子どもらを言うならその公開状態から保護してやる必要が生じますね。その部分をある視点からみれば、確かに、養護施設というのは閉鎖的な環境と見える余地が出てくるでしょう。

 しかしながら、その部分に関する限りは、施設側が子どもらを社会から守って、というより、保護しているというわけで、これは決して、閉鎖的な環境に押しとどめて外から隔離しているというわけではありません。

 どうしても貴君の場合は被害者トーンになりがちであるのは仕方ないが、その部分において養護施設側が子どもらの権利を守っていないというのは、いくら何でも早計に過ぎよう。それこそなんじゃ、君と山崎君の間の会話ではないが、オウム真理教の組織内組織である「サティアン」ではないが、ある程度、いや、社会的には他の組織などよりずっと、閉鎖性の要素を対外的に持ちえないと、実は子どもらの安全を守り切れない側面がある。

 それも、わしに言わせれば養護施設の宿命じゃ。詭弁とまでは言えまい。

 

 ただ、養護施設が外に開かれている必要があるというのは、確かじゃ。

 一つは、米河君の定義する家庭等以上に大掛かりな組織となる場所であるから、そんな中で内向きなことばかりやっていては、それこそ貴君らの言うサティアンとやらと同レベルの話になってしまいかねない。

 無論、そのような事態は避けなければならない。

 貴君は東先生や山上さんのおられた頃のよつ葉園を随分批判的に述べておられるが、その批判は確かに一定以上の意味を持つし、大いに述べられたらよろしい。

 そこにおいては、私自身反省するところも少なからずある。

 その点については、貴君に同意できる余地も大いにあるが、本質的なところにおいては、非閉鎖性の持つ役割についても、貴君はもっと意識を向けてもよいのではないかと思われる。

 ほら、必要を超えて生徒を縛る校則の問題を考えてごらんよ。

 どうかな?

 同じような関係性が、見て取れぬじゃろうがな。


・・・ ・・・ ・・・・・・・


  

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