周澹   北魏医師史

周澹しゅうせん京兆郡けいちょうぐん鄠県がくけんの人だ。様々な特殊技能を備えていたが、中でも医薬に関する知識が図抜けていた。このめ太醫令たいいれいに任じられた。拓跋嗣たくばつしがかつて痛風やめまいに苦しめられていたとき、周澹の治療によって回復したことがあり、このため寵遇を受けるようになった。その位は特進とくしんにまで至り、また成德侯せいとくこうに封じられた。


415 年、平城へいじょうを飢饉が襲う。朝議ではぎょうに遷都したほうが良いのではないか、といった話も持ち上がったが、周澹と博士祭酒はくしさいしゅ崔浩さいこうがともに進言、遷都すべきではない、と述べる。拓跋嗣も大いにうなずき、言う。

「この二人のみが、朕と思いを同じくしているのだ」

周澹と崔浩にはそれぞれ美女ひとりずつが与えられ、また御衣一襲,絹五十匹、綿五十斤も下賜された。419 年に死亡、きょうと諡された。


同時代の医師としては、ほかに河南かなん人の陰貞いんていが代々の医者であり、周と同等の封爵を受けている。清河せいが人の李潭りたんもまた鍼の腕前があり名を知られていた。




周澹,京兆鄠人也。為人多方術,尤善醫藥,為太醫令。太宗嘗苦風頭眩,澹治得愈,由此見寵,位至特進,賜爵成德侯。神瑞二年,京師飢,朝議將遷都於鄴。澹與博士祭酒崔浩進計,論不可之意,太宗大然之,曰:「唯此二人,與朕意同也。」詔賜澹、浩妾各一人,御衣一襲,絹五十匹、綿五十斤。泰常四年卒,諡曰恭。時有河南人陰貞,家世為醫,與澹並受封爵。清河李潭亦以善鍼見知。


(魏書91-5)





この時代の医術は謎の妖術、位の扱いんですよね「中原では」。北方ではどうだったんでしょうかね。みんなある程度のセルフケアはできてたんじゃとは思うんですが。それにしても周澹の寵遇が凄まじい。医術だけで侯爵についちゃうとか、正直いまいちピンときません。まぁけど「そういうものだった」ことから目をそらしても仕方ないですね。それ以外にも優れた点があった、と考えるべきなんでしょう。

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