酈範他  酈範韓秀堯暄

酈範れいはん、字は世則せいそく、幼名は記祖きそ范陽郡はんようぐん涿鹿県たくろくけんの人だ。祖父は酈紹れいしょう慕容寶ぼようほうのもとで濮陽太守ぼくようたいしゅであった。拓跋珪たくばつけい中山ちゅうざんを落としたとき、郡民を率い出迎え、帰順。兗州監軍えんしゅうかんぐんの地位を授けられた。父は酈嵩れいすう天水太守てんすいたいしゅとなった。

酈範は拓跋燾たくばつとうの時に給事東宮きゅうじとうぐうとなり、平東將軍へいとうしょうぐん青州刺史せいすふししに任じられ、范陽公はんようこうに仮に封じられた。平城へいじょうに戻ると、62 歳で死亡。ぼくと諡された。

酈範には五人の子があったが、中でも有名なのが水経注すいきょうちゅうを編纂した酈道元れいどうげんだ。彼の伝は酷吏傳こくりでんに収められている。


韓秀かんしゅう、字は白虎はくこ昌黎しょうれい人、つまり慕容のはじめの拠点に住んでいた人だ。祖父の韓宰かんさい慕容儁ぼようしゅん謁者僕射かっしゃぼくしゃであった。父の韓昞かんへいが、拓跋珪の帝位即位直後ころに北魏に帰順した。宣威將軍せんいしょうぐん騎都尉きといに任じられた。

韓秀は官吏の職務を歴任、やがて尚書郎しょうしょろうに移り、遂昌子すいしょうしに封じられ、廣武將軍こうぶしょうぐんとなった。孝文帝こうぶんていが即位して間もなくの 480 年前後、內侍長ないじちょうとなり、後に平東將軍へいとうしょうぐん青州刺史せいしゅうししとなり、漁陽公ぎょようこうに仮に封じられた。任地にあること数年にして死亡した。


堯暄ぎょうけん、字は辟邪へきじゃ上黨郡じょうとうぐん長子県ちょうしけんの人だ。もとは堯鍾葵ぎょうしょうきと言ったが、暄の名が与えられた。祖父は堯僧賴ぎょうそうらい。拓跋珪が中山を落としたとき、趙郡ちょうぐん呂舍りょしゃに従い帰順した。呂舍とともに平城に至ると、その地で田や屋敷を与えられた。




酈範,字世則,小名記祖,范陽涿鹿人。祖紹,慕容寶濮陽太守。太祖定中山,以郡迎降,授兗州監軍。父嵩,天水太守。範,世祖時給事東宮。除平東將軍、青州刺史,假范陽公。還朝,年六十二,卒於京師,諡曰穆。範五子,道元在酷吏傳。

韓秀,字白虎,昌黎人也。祖宰,慕容儁謁者僕射。父昞,皇始初歸國,拜宣威將軍、騎都尉。秀歷吏任,稍遷尚書郎,賜爵遂昌子,拜廣武將軍。太和初,遷內侍長。後為平東將軍、青州刺史,假漁陽公。在州數年,卒。

堯暄,字辟邪,上黨長子人也。本名鍾葵,後賜為暄。祖僧賴,太祖平中山,與趙郡呂舍首來歸國。呂舍既歸國,從至京師,給賜田宅。


(魏書42-1)




このあとに子孫の伝が続きますが、しらん! 前燕後燕からの帰順者が先にあった立伝者以外にもいて、各地で重んじられた、で十分!


ただ、ここで出てくる仮公は、確か正規爵位より一段落ちる扱いだったと思うんですよね。そのへんをもう少しはっきり出来たらいいんだけどな〜とかは思うのでした。

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