李宝   西涼の末裔

李寶りほう、字は懷素かいそ。幼名は衍孫えんそん隴西ろうさい狄道てきどうの人で、,西涼王せいりょうおう李暠りこうの孫である。父は李翻りはん、字は士舉しきょ、幼名は武彊ぶきょう。西涼の驍騎將軍ぎょうきしょうぐん祁連きれん酒泉しゅせん晉昌しんしょう三郡太守さんぐんたいしゅであった。


李寶は典雅にして度量があり、さらに驍勇にして人々をよく慰撫した。伯父の李歆りいん沮渠蒙遜そきょもうそんに滅ぼされると、李寶は姑臧こぞうに移り、一年ほどしてから母の兄弟である唐契とうきつと北の伊吾いごに逃れ、柔然じゅうぜんに仕えた。このとき西涼の遺民二千あまりが李宝を慕いやって来た。李寶は自ら彼らの応対に出回り、おおいにその心を掴み、みなは喜んで李宝に仕え、共に復讐を果たしたいと誓い合った。


拓跋燾が沮渠無諱そきょむいを守る敦煌を攻撃するのに,李宝も参加、沮渠無諱は城を捨て遁走。この段にいたり、李寶は伊吾から敦煌に帰投、城府を修繕し、西涼最盛期の城の状態に復旧させた。そして弟の李懷達りかいたつを拓跋燾のもとに派遣し、忠誠を誓う旨表明した。拓跋燾もまたその忠心を慶賀し、李懷達を散騎常侍さんきじょうじ敦煌太守とんこうたいしゅとし、別に使者を発して、李寶を使持節しじせつ侍中じちゅう都督ととく西垂諸軍事せいすいしょぐんじ鎮西大將軍ちんざいしょうぐん開府儀同三司かいふぎどうさんしとし、さらに護西戎校尉ごせいじゅうこうい沙州牧さしゅうぼく敦煌公とんこうこうに任じた。敦煌守護はそのままとし、四品以下については李宝の裁量で仮任用ができるようにした。


444 年に入朝、平城へいじょう詰めとなる。外都大官がいとだいかんに任じられ、鎮南將軍ちんなんしょうぐん并州刺史へいしゅうししに転じた。その後平城に帰還し、內都大官ないとだいかんとなった。459 年、53 歳で死亡した。命服一襲が下賜され、宣と諡された。




李寶,字懷素,小字衍孫,隴西狄道人,私署涼王暠之孫也。父翻,字士舉,小字武彊,私署驍騎將軍,祁連、酒泉、晉昌三郡太守。寶沉雅有度量,驍勇善撫接。伯父歆為沮渠蒙遜所滅,寶徙於姑臧。歲餘,隨舅唐契北奔伊吾,臣於蠕蠕。其遺民歸附者稍至二千。寶傾身禮接,甚得其心,眾皆樂為用,每希報雪。屬世祖遣將討沮渠無諱於敦煌,無諱捐城遁走。寶自伊吾南歸敦煌,遂修繕城府,規復先業。遣弟懷達奉表歸誠。世祖嘉其忠款,拜懷達散騎常侍、敦煌太守,別遣使授寶使持節、侍中、都督西垂諸軍事、鎮西大將軍、開府儀同三司、領護西戎校尉、沙州牧、敦煌公,仍鎮敦煌,四品以下聽承制假授。太安五年薨,年五十三。詔賜命服一襲,贈以本官,諡曰宣。


(魏書39-1)




西涼の大物! このひとの次男がかの李沖りちゅうさんであり、馮太后の下でバリバリに政務を司った辣腕さんです。かのっつってもときめいてんの俺だけか。まぁ李沖さんはやらないんですが!


李宝自身も、まともに伝が残ってたらいろいろ面白いエピソードが残ってたんでしょうね。読んでみたかったもんです。

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