崔浩15 国史編纂

拓跋珪たくばつけいが存命の頃、尚書郎しょうしょろう鄧淵とうえんに『國記こくき』、すなわち北魏創建の記録を著すよう命じていた。残されたものは十巻あまり、だいたい時系列順に並びこそしていたが、その採録形式がきっちり定まっているわけではなかった。しかもその鄧淵は拓跋珪により処刑されている。このため国記は拓跋嗣たくばつしの代に至ると編纂が中止され、顧みられることがなくなった。

やがて 429 年、拓跋燾たくばつとうは詔勅を下して文人らを招集、改めて國書を編纂するよう命じる。ここに集められた文人は崔浩さいこうとその弟である崔覽さいらん高讜こうくん鄧穎とうえい晁繼ちょうけい范亨はんきょう黃輔こうほである。それぞれが知恵を出し合い編まれた國書は全三十卷からなるものであった。


同年、柔然じゅうぜん討伐を開始せんと拓跋燾が提議。臣下らは誰も彼もがそんなものに参加したくないと考えてお いた。そうした意向を受け、拓跋燾の養母である保太后ほたいごう竇氏とうし拓跋燾たくばつとうを説得にかかるも、聞き入れられない。こうした中、崔浩だけは賛同のうえ具体的な計略を拓跋燾に提示していた。


こうした事態を受け、尚書令しょうしょれい劉潔りゅうけつ左僕射さぼくしゃ安原あんげんらは、黃門侍郎こうもんじろう仇齊きゅうさいを説得役に任じ、赫連昌かくれんしょうのもとで星見として活躍していた二人の学者、張淵ちょうえん徐辯じょべんに、拓跋燾の説得を依頼させた。


この依頼に応じ、張淵らは拓跋燾に言う。

「今年は己巳、ただでさえ陰の気の集いやすい歳。そこにいま、木星が月と重なり、金星が西方に顔を見せております。こうした天徴からしても、今年は兵事を興すべきではございません。すれば敗北しましょうし、よしんば勝利を得たにせよ、陛下にとっては損害のほうが大きくなってしまいましょう」


この発言に応じ、群臣らの中にはこのように発言するものも現れた。

「張淵殿は幼き折、かの苻堅ふけんに南征すべきではないと諫じておられます。それに従わなかった苻堅にいかなる顛末が訪れましたでしょうか。天の時、人の事。いずれもが今回の事業と噛み合っておりませぬ。どうしてこのタイミングで動きえましょうか!」


拓跋燾は一向に進まない柔然討伐の議論に業を煮やし、ついには崔浩を呼び出し、張淵らと討論するよう命じた。




初,太祖詔尚書郎鄧淵著國記十餘卷,編年次事,體例未成。逮于太宗,廢而不述。神䴥二年,詔集諸文人撰錄國書,浩及弟覽、高讜、鄧穎、晁繼、范亨、黃輔等共參著作,敍成國書三十卷。

是年,議擊蠕蠕,朝臣內外盡不欲行,保太后固止世祖,世祖皆不聽,唯浩讚成策略。尚書令劉潔、左僕射安原等乃使黃門侍郎仇齊推赫連昌太史張淵、徐辯說世祖曰:「今年己巳,三陰之歲,歲星襲月,太白在西方,不可舉兵。北伐必敗,雖克,不利於上。」又羣臣共贊和淵等,云淵少時嘗諫苻堅不可南征,堅不從而敗。今天時人事都不和協,何可舉動!世祖意不決,乃召浩令與淵等辯之。


(魏書35-15)




拓跋燾、普段からバリバリに(要検討)崔浩と議論を(要検討)重ねてた(要検討)んでしょうね。たぶん崔浩も、拓跋嗣よりはもう少し自身の抱える諜報網の存在を匂わせたんじゃないかと思いますし、そうするといちいち「天徴にかこつけて政治兵事を語る」みたいな迂遠な真似をしなくて済むようになる。ともなれば、もっと諸々踏み込んだ、直接的な議論ができたのでは、と思うのです。


にもかかわらず、ここで北魏群臣が呼び寄せたのが、既に崔浩と拓跋燾にとって周回遅れになっている存在、星見役。しかも、その論調は正直イモい。

己巳,三陰之歲

→いや「凶事の歲」って全ての国に当てはまるよね?

歳星襲月

→肝心なのはどこの星宿でその天象が起きたかだよね? なんでそんなふんわりした発言恥ずかしげもなく出来るの?

太白在西方

→太白って基本的に凶事の星よね? ってことは北魏にとって西方、つまり柔然に凶事あり、って意味にならない?

さて、こうした疑問を抱えた上で、崔浩さんよりの反論を楽しみとしましょう。

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