公孫表2 秘して誅殺

劉裕りゅうゆう後秦こうしん征伐に出向くと、滑臺かつだいを守っていた尉建うつけんが任地を放棄し逃亡。そこで公孫表こうそんひょう叔孫建しゅくそんけんと共に出撃を命じられ、枋頭おほうとうに駐屯した。劉裕が死ぬと、河南かなんの獲得を目指すべきである、と言う議論が上がった。ここで拓跋嗣たくばつしは河南を経て淮水わいすい沿岸にまで出張ろうと目論見、それさえ為し遂げられれば滑臺ら三城も自ずと降伏するだろう、と考えていた。しかしここで公孫表はあくまで滑台らを先に落とすべきであると食い下がり続け、拓跋嗣もそこに従った。


こうして奚斤けいきん都督ととくとし、公孫表を吳兵將軍ごへいしょうぐん廣州刺史こうしゅうししに任じ、南征の軍として発した。奚斤らは黄河こうがを渡り、公孫表は滑臺を攻めるも、一向に陥落させることができない。拓跋嗣が南巡し、後援となるべく動いた、やがて公孫表がなんとか滑臺を落とし、兵を率い西に進む。土樓どろうでは劉義隆りゅうぎりゅうの配下将である翟廣てきこうを撃破、こうしてついに虎牢ころうを包囲した。


拓跋嗣が汲郡きゅうぐんに出ると、蘇坦そたん王亮おうりょうが公孫表の軍を虎牢の東に置くべきである、と進言。利便性の高い地に軍を配しておけば、敵軍も時を置かずして滅ぶであろう、とした。つまり持久戦を仕掛けろ、という意向である。そしてここに配置された公孫表は、改めて虎牢を攻撃。失敗した。拓跋嗣はもともと権謀術数での戦いを好んでおり、かつ公孫表には過去の大ポカもあったため、虎牢攻めでみごとに多量の死傷者を出した公孫表に対し、ついには堪忍袋の緒が切れた。夜中に人を遣り、陣幕中にて首をくくらせた。時に 64 歳。拓跋嗣は劉宋軍を追い払えていなかったからと、この事実を伏せた。


ところで過去、公孫表は封愷ふうがいと友好関係があり、後に息子を封愷のいとことめあわせたいと考えた。しかし封愷がこれを退ける。公孫表はその対応に深い怒りを抱いた。やがて、そんな封氏が司馬國璠しばこくはんの反逆未遂に連座となる。拓跋嗣ははじめ後燕こうえん系の旧族である封氏をある程度は許そうと考えていたのだが、公孫表が断固として葬り去るべき証拠を持ち出してきたため、封氏はひとりを残して殺されている。


公孫表は表向き和み親しみある雰囲気を持っていたが、その内実として猜疑するところがあり、人々はその性格を軽蔑していた。また公孫表は王亮と同僚となったことがあったのだが、王亮が外鎮となるときに大いに王亮を軽侮した。こうした性分もまた、公孫表の処刑に繋がった。




及劉裕征姚興,兗州刺史尉建聞寇至,棄滑臺北走,詔表隨壽光侯叔孫建屯枋頭。泰常七年,劉裕死,議取河南侵地。太宗以為掠地至淮,滑臺等三城自然面縛。表固執宜先攻城,太宗從之。於是以奚斤為都督,以表為吳兵將軍、廣州刺史。斤等濟河,表攻滑臺,歷時不拔。太宗乃南巡,為之聲援。表等既克滑臺,引師西伐,大破劉義隆將翟廣等於土樓,遂圍虎牢。車駕次汲郡,始昌子蘇坦、太史令王亮奏表置軍虎牢東,不得利便之地,故令賊不時滅。太宗雅好術數,又積前忿,及攻虎牢,士卒多傷,乃使人夜就帳中縊而殺之。時年六十四。太宗以賊未退,祕而不宣。

初,表與勃海封愷友善,後為子求愷從女,愷不許,表甚銜之。及封氏為司馬國璠所逮,太宗以舊族欲原之,表固證其罪,乃誅封氏。表為人外和內忌,時人以此薄之。表本與王亮同營署,及其出也,輕侮亮,故至於死。


(魏書33-9)




韓非センセー「わたしは和しろと言ったはずもなければ、猜疑しろと言ったつもりもないが……?」


うーん、このひと拓跋嗣南進の大ポカという結果から散々に貶められてそうな感じがあるんだよなあ。死人に口なしで貶められてそうな気配。あまりにもわかりやすいザコ将。じゃあなんでそんな人物を立伝してるんですかってゆう。どうもこの記述を素直に受け入れきる気になれません。さて、いったいどうしたものか。

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