公孫表2 秘して誅殺
こうして
拓跋嗣が
ところで過去、公孫表は
公孫表は表向き和み親しみある雰囲気を持っていたが、その内実として猜疑するところがあり、人々はその性格を軽蔑していた。また公孫表は王亮と同僚となったことがあったのだが、王亮が外鎮となるときに大いに王亮を軽侮した。こうした性分もまた、公孫表の処刑に繋がった。
及劉裕征姚興,兗州刺史尉建聞寇至,棄滑臺北走,詔表隨壽光侯叔孫建屯枋頭。泰常七年,劉裕死,議取河南侵地。太宗以為掠地至淮,滑臺等三城自然面縛。表固執宜先攻城,太宗從之。於是以奚斤為都督,以表為吳兵將軍、廣州刺史。斤等濟河,表攻滑臺,歷時不拔。太宗乃南巡,為之聲援。表等既克滑臺,引師西伐,大破劉義隆將翟廣等於土樓,遂圍虎牢。車駕次汲郡,始昌子蘇坦、太史令王亮奏表置軍虎牢東,不得利便之地,故令賊不時滅。太宗雅好術數,又積前忿,及攻虎牢,士卒多傷,乃使人夜就帳中縊而殺之。時年六十四。太宗以賊未退,祕而不宣。
初,表與勃海封愷友善,後為子求愷從女,愷不許,表甚銜之。及封氏為司馬國璠所逮,太宗以舊族欲原之,表固證其罪,乃誅封氏。表為人外和內忌,時人以此薄之。表本與王亮同營署,及其出也,輕侮亮,故至於死。
(魏書33-9)
韓非センセー「わたしは和しろと言ったはずもなければ、猜疑しろと言ったつもりもないが……?」
うーん、このひと拓跋嗣南進の大ポカという結果から散々に貶められてそうな感じがあるんだよなあ。死人に口なしで貶められてそうな気配。あまりにもわかりやすいザコ将。じゃあなんでそんな人物を立伝してるんですかってゆう。どうもこの記述を素直に受け入れきる気になれません。さて、いったいどうしたものか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます