さあ、楽しもう
それは今朝――ちょうど、二時間目の授業が終わった時のことだ。次は化学だから教室移動かぁなんて思いながら机の中から教科書を引っ張り出して、私は隣の席を振り向く。
「竜胆ちゃん、化学室行く?」
「んー、お手洗い行きたいから先行ってて」
「わかった」
短い会話だけ交して竜胆ちゃんは教室を出ていく。それを見送ったころ、背後から大きなため息がこぼれた。びっくりして振り返ると、前園さんが机につっぷしたまま、恨めしそうな目でこちらを見上げている。
「最近さ、喧嘩でもしてんの? 視界に入ってウザいんだけど」
相変わらずの歯に絹着せぬ物言い。中川先輩とかも口悪いけど、あっちはある意味のヤンキーコミュニケーションというか……とにかく、前園さんの言葉の方がざっくりと心をえぐって来るよね。
「えっと、喧嘩してるわけじゃないんだけど……」
「じゃあ、なんで仲いいように取り繕ってる感じになってんの?」
「んー、取り繕ってるわけでもないんだけど」
「意味わかんない」
前園さんは、これ見よがしなため息をもうひとつ吐く。今の竜胆ちゃんとのこの感じ、何て言ったら彼女に伝わるのかな。たぶん「今、部活でレギュラー争奪戦をやってて、今日は竜胆ちゃんとの試合があって」なんて言っても、上手には通じないだろう。確かに、勝負を前にピリついてはいる。だけどそれは、いい意味でのピリつきっていうか。互いにとっての武者震いっていうか。
「巌流島に臨む、武蔵と小次郎みたいなもんだよ」
「はぁ?」
上手い例えが思いつかなくて、そんな言葉と苦笑でお茶を濁した。実際のところ前園さんにも通じなかったみたいだが、彼女は興味を失くしたように自分の教科書を取り上げて、教室を出て行った。
目の前で微妙な空気を作っちゃってごめんね。だけど、それも今日までだから。決着がついたら、明日からはいつもの感じに戻るから。それだけは絶対に約束できるって、私は信じている。
「違う。鈴音、まだ力が入ってる」
今度は、リーグ戦前の黒江からの特別コーチの時。例の新技……もとい、新必殺技の練習なわけだけど、いかんせん経過は芳しくなかった。
「そうは言われても、今までそうやって打ってたんだから、身体が覚えちゃってて」
黒江が教えてくれたのは、剣士としては実にありふれた技に関するコツだ。なんなら小学生だって使うような基本中の基本の技。だけど、そのコツってヤツが私がこれまで習って来たことや、実践してきたことと正反対のこと過ぎて、身体も思考も追いついていかない。
「それに、なんだかルールの穴を掻い潜るような感じがして、微妙に気が引けるというか」
「なにを言ってるの?」
私の言葉にできないモヤモヤは、黒江の言葉ひとつで一蹴される。
「これは真剣による殺し合いじゃない。剣道というスポーツだから。そのルールに則っている以上、何も責められることはない」
「そうだけどさぁ」
「それでも鈴音の気が引けるなら、きっとルールそのものに不備がある」
黒江は気持ちいいくらいに断言する。
「そもそも……この競技は、選手の心の善性に頼りすぎている」
「まあ、それはそう。一本の決め方だって厳密なルールがあるわけじゃなくって、みんなが納得したら~くらいのものだし」
例えばこれが柔道なら「綺麗に背中が付いたら一本」みたいに、ある程度誰が見ても納得できる根拠がある。方や海外における剣競技であるフェンシングでは、防具に電子装置が仕込まれていて、機械による判定で勝敗が決まる。これもまた、誰が見ても疑いようがなく明快だ。
その点、剣道はやっぱり曖昧。気剣体の一致という精神論上のルールはあるけど、それを判断するのは結局人間だ。
「だから、剣士には審判を納得させる力が必要。この技のコツは、全てそこにある」
「そう……か」
言われてみれば納得できる。曖昧だからこそ、必要なのはアピール力。今のは自分が取ったんだぜって審判たちに見せつける、ある意味の演技力。つまるところ、自信だ。
「もう一回だけ、黒江の技を見せて。次はきっと、何か掴んでみせるから」
私の願いに、彼女は無言で頷き返してくれた。必ずものにしてみせる。成長は「変わる」ってことだから。今までの私の常識、殻を破ってでも、もう一歩先の私へ。
そして今、リーグ戦は佳境を迎えている。壁の表がまだまっさらなころにはあった、こそばゆい、浮ついた空気はもうこの場にはない。レギュラー決めという名目のもと、取り返しのつかない試合を積み重ねて来た部員たちの表情には、死線を潜り抜けた後のような貫禄すらある。
鑓水先生と部長がリーグ戦をすることに決めたのは、もしかしたら気持ち的な効果も狙ってのことだったのかな。負けたら終わりの「全国の道」へ歩み出す前に、選手ひとりひとりが、自ずと喝を入れられるように。
今日は、部活の時間になってから、竜胆ちゃんと一言も言葉を交わしていない。初めのころは戸惑っていたこのギスギスした感じも、今では戦いの前の静けさとして心地いい。お互いに何となく分かっているんだ。先輩たちを差し置いてレギュラーに入るとしたら、私たちの〝どっちか〟だって。枠は決まっているのだから、互いに互いを蹴落とすしかない。だからこそ、情を廃するために不干渉を貫く。
勝敗が決した後に、スッキリとした心で「おめでとう」と口にできるように。
(私、越してくるのがこの学校で良かったな)
引っ越し先が山形じゃなかったら、そしてこの学校を受験して入学できていなかったら、今ごろ私は剣道をやってすらいなかっただろう。入学前は「剣道を辞めたぶん何をしよう」なんて夢や希望に満ち溢れていたものだけど、今となっては、剣道を辞めた自分が何をしてるかなんて想像もつきやしない。
知り合いのひとりもいないこの地で、竜胆ちゃんに出会わなかったら剣道部の見学に行かなかった。
見学に行かなきゃ、黒江がこの学校にいることも知らなかったし、そのまま互いを認識することなく卒業してたかも。
そして黒江と再会した。私の物語は、その瞬間にまた動き出した。
部長や日葵先輩みたいな、今まで意識もしてなかった凄い剣士たちを目の当たりにして。同じくらい、自分の至らなさも認識して。
安孫子先輩や中川先輩みたいな苦手な人もいるけど、早坂先輩や五十鈴川先輩、熊谷先輩みたいな良くしてくれる人たちもいて。それから井場さんたち、同学年の新しい仲間にも出会えた。
ちょっと怖いけど、部員ひとりひとりの成長を考えてくれる顧問もいる。
たった一ヶ月そこらの出来事だけど、私はこの部が好きだ。
私は今、ここで、あこや南高校剣道部で剣道ができるんだ。
その嬉しさを噛みしめて戦いに臨む。
嬉しいだけじゃだめだから。
あこや南の名前を背負って、試合で結果を出すことが、私にとっての恩返しになるんだから。
「次! 赤、日下部竜胆! 白、秋保鈴音!」
鑓水先生の号令共に、私はもう一度だけ面紐をきつく結び直す。蝶結びのわっかをピシッと左右に張りつめると、心まで引き締まるような思いだった。
小手をはめて、コートの端まで歩み出る。対岸では既に竜胆ちゃんが準備を済ませていて、トントンと軽快な跳躍で身体をほぐしていた。
コート上には副審の部長と井場さん。そして主審は――黒江。私も竜胆ちゃんも、視界の端で彼女のことを見つめた。一番近いところで、この勝負の決着を見られる。嫌だとは思わない。むしろ良い。私が殻を破るところを、ちゃんとそこで見ていてね。
コート内に足を踏み入れ、一礼。開始線まで歩み寄りながら、左手に携えた竹刀を抜き放つ。何度も経験してきた、この時間が好きだ。相手と私と、コートの上にふたりきり。それを実感できるこの時間が。
伏し目がちの視線を上げるように、竜胆ちゃんを見る。彼女はじっと私を見つめたまま、口を横一文字に結んでいた。
緊張が張り詰める。呼吸が僅かに大きく、深くなる。喉が渇く。唾を飲み込む。動いてもいないのに、首筋に汗が垂れる。身体の奥にため込まれた熱を吐き出すように、大きくひとつ息を吐いた。
巌流島へ向かうさ中、ふたりがどんな気持ちでいたのかを私は知らない。だから私は、私の心のままに、このコートの上に立つ。
「――はじめっ!」
さあ、楽しもうよ竜胆ちゃん。見た人が思わず、剣道をやりたくなるくらいに。
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