第二章  第20話 #9-2 中田与志男三曹 呼吸停止

 では、行ってきますと言って隆一郎は隊舎にむかった。中田の部屋まではパメラが案内するというので。念のためゴム手袋とマスクをつけさせた。中田を世話していたのだから飛沫感染や空気感染していれば彼女も危ない。だが、通常の炭疽菌なら人から人への感染はないはずだ。

 

 「中田さんが病気になったのは私のせいですか?」と防護具をつけながらパメラは聞いた。隆一郎は気にするなとだけ言った。

 隊舎は老朽化した小学校の校舎のようだった。スキマ風の吹くサッシの窓からの冷気が階段も廊下も凍らせていた。琉洲奈島は温暖な島だ、こんな大雪の日でなければ普段は過ごしやすい。暖房も全く効いていない。もし炭疽菌で発熱しているとしたら、この冷気は患者につらいはずだ。

 

 佐武は佐世保の海上自衛隊第22航空群のドクターヘリを呼んだ。琉洲奈島のヘリポートまでは約260kmある。到着まで準備も含め1時間半かかる。新型コロナ感染症の患者の搬送に近い防護体制でやってくる。そして隆一郎の兄がいる才谷第一病院に搬送する。集中治療室に空きがあってよかった。治療方法は詳細に兄に伝えた。もともと兄は研究者肌の医師だ。炭疽菌の話はよく二人で話題にしていた。兄も隆一郎に勝るとも劣らない炭疽菌の知識がある。十分に治療に当たれる。

 

 「中田さんが外出したのは、厳原町にいった18日だけです。あの日、私は酔っぱらっていて、中田さんたちにその日のレーダー誤認の話をしていました。その日、私たちは先に送ってもらったのだけど中田さんは早朝に帰ってきました。数日後から中田さんは体調を崩していました。潜伏期間を考えるとあの日になにかあったってことですよね。」

 「考えるな。起こったことは元には戻らないし、誰のせいでもない」

 「でも、私がへんな光点にこだわらなければ……」

 

 話をしているうちに隊舎の三階に到着した。彼女は三階の階段手前の廊下で待機したいといった。その距離なら感染のリスクはゼロだ。

 隆一郎は隔離室のドアを開けた。部屋に入る直前に振り返り、パメラに微笑んだ。

 

「パメラ、これは誰のせいでもない。もし誰かのせいだというのなら、その白い粉をそこに置いたテロリストのせいだ。」

彼女に聞こえたかどうかはわからなかったが、いずれわかるはずだ。

 

 大部屋の一室を利用しているため、中田のベッドは窓側の一番奥にあった。誰もいない広い部屋の奥で中田は肩で息をしていた。熱があるときいたが、中田は横になっていなかった。枕を背中のクッションにして座っている。その姿を見て、まずいなと思った。

 

 喘息や肺水腫などの肺疾患は、寝ると呼吸困難になって苦しい事が多い。このために座って少しでも呼吸を楽にしようとする。呼吸器や酸素ボンベはさすがに持ちあわせていない。ドクターヘリ到着まで呼吸を維持できるかどうかが勝負だ。

 

 「中田さん、大丈夫ですか?」

 声をかけたが返事はない。呼吸するだけで精一杯だ。

 

 「薬、飲めますか?」と聞きながら、注射液も準備する。返事はない。中田は意識が朦朧としているようだ。

 

 「パメラ、新型コロナの肺炎って苦しいんだな。オレ知らなかったわ。もっと気をつけたらよかった」

 昨夜、中田はパメラにそう言ったそうだ。この病気が新型コロナ感染症由来の肺炎だと思っているようだ。だが、説明している余裕はない。隆一郎は手早く背中に丸めた毛布を押し込んで呼吸が楽になる姿勢を取らせた。

 

 これが必要になるかもしれないと赤い箱を準備した。小型AED(自動体外式除細動器)だ。心臓が痙攣して血液を流すポンプ機能が停止した時に、心臓に電気ショックを与えて鼓動を再開させるための装置だ。呼吸が苦しいとすれば、肺炭疽に間違いない。であれば、敗血症性ショックや多臓器不全を起こしている可能性があり、致死的な不整脈が起きることもあり得る。そのための準備だった。ドクターヘリが来るまでの1時間、ここにあるペンギンカートの中身だけで彼の命を守らないといけない。隆一郎は時計をみた。正確にはあと45分で到着する。

 今後の治療の方針のために動画も撮影しつつ、3階フロアで待機していたパメラに小型担架を用意してほしいと告げた。ドクターヘリが到着したらすぐに患者を搬送しないといけない。

 

 「中田さん、がんばりましょう。ドクターヘリが来ます」

 声をかけたが、中田はもう返事する力がなかった。小さく頷きながら、全身で呼吸をしていた。

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