第一章 第7話 #5 いったい誰?
アパートから逃げ出して、暫く走ると山崎西北小学校という看板が見えた。校舎を囲むブロック塀は子供には高くて登れないが、大人になった寿満子には楽々超えることができた。寿満子は給食室の裏のポリバケツ横に身を潜めた。早朝の学校には誰もいない。追跡者が学校に入ってくればすぐに気付ける。何台かの車が学校前の道を通りすぎる音はしたが、停止させる音はなかった。
無事に逃げ切れた。走り続けて火照った体が急速に冷えてきた。2月末の早朝は0度近くに冷え込む。薄着の半そで・半パンのトレーニングウェアの上下にカーディガンを羽織っただけの薄着だ。
とてもこのまま屋外に留まることはできない。家にはあの男たちがまだいるかもしれない。帰れない。同じ居酒屋で長年共にバイトをしていたしーちゃんが近くに住んでいたことを思い出した。バイトの店が引けた後、時々、お互いの家に泊まってよく酒を飲んだ。しーちゃんも昼間の仕事は派遣で、彼女も彼氏との関係に悩んでいた。
学とケンカになって彼が裁ち鋏を持ち出したことを相談した時、ほとんどの友人はそんな男とは早く別れろと言った。その中でしーちゃんだけが、彼氏の気持ちを汲んで上手に仲良くやればいいよと言ってくれた。その後も一番親身になって悩みを聞いてくれたのが彼女だ。
話によるとしーちゃんの彼氏も危険な感じだった。
「うちの彼もすーちゃんの彼氏と同じくらい切れると怖い人なんだよ。」
どんな人なのか寿満子は会ったことはない。酒さえ飲まなければ優しい彼氏だが、酒を飲むと豹変するらしい。仕事の愚痴をぼやいては真剣に聞いていないと言って殴り、彼女が青あざをつくることも度々あった。
最初は飲んで絡んでくるだけだったが、次第に暴力的になっていったそうだ。
まだ、あのアパートに住んでいるだろうか。居酒屋が閉店してから連絡したことがなかった。彼女に連絡したいが、携帯も財布も何も持たずに逃げてきた。メールも電話もできない。
早朝にいきなり行くのは迷惑だろうが、直接行ってみるしかない。しーちゃんのアパートも木造で築20年、家賃も寿満子のアパートと同じくらいで、1Fの一番奥の部屋だった。山崎西北小学校から彼女のアパートまでは歩いて5分ほどの距離だ。
隠れていた間に7時前になり、学校や会社にいく人達の足早に歩く姿が増えてきた。
しーちゃんはまだそこに住んでいた。
「すーちゃん、どうしたの? こんな時間に。まだ寝てたよ」寝起きのパジャマ姿のまましーちゃんはドアを開けた。少し迷惑そうだったが、冷え切った体を温めたい一心で平謝りに謝って中にいれてもらった。彼氏が来ていたらどうしようと心配だったが、男モノの靴はない。たぶん、誰も来ていない。内心、ほっとした。
「あんた、なんでそんな薄着なん? 冷え切ってるじゃないの」しーちゃんは入ってきた寿満子の姿に驚いた。小さな電気ストーブしか暖房のない部屋だが、それでも外気とは全く違う。ほっとした。部屋であったことをどう説明したらいいのか、寿満子は迷った。
明け方に突然やってきた学とそれを追うように乱入してきた男たち。あの暴行事件。信じてもらえないだろう。言葉に迷った。
「彼氏ともめて逃げてきた」
寿満子の口を突いて出た言葉はこれだった。
「わかった。ここにいていいよ」
「突然ごめん」
「お互い様。私もどうにもならなかったら、すーちゃんとこへ逃げる」
「しーちゃん。ほんま恩にきるわ」
「気にせんでええよ。私はまだ眠いから寝る。お茶は冷蔵庫にあるから勝手に飲んで」
「ありがとう」
寿満子は電気ストーブの前に座り込んだ。やっと人心地ついた。あの居酒屋が閉店になったあと、しーちゃんがどうしていたのかは彼女の部屋に入ると一目瞭然だった。
彼女の部屋には背中の空いたドレスや中古のミンクの毛皮が点在していた。次のバイト先が見つかったようだ。しーちゃんは二十八才。水商売デビューするには遅いが接客業には慣れていて、話上手だ。どうにか雇ってもらえる店を見つけたのだろう。
ベッドに戻ると彼女はすぐに寝息をたてていた。夜の仕事の彼女をこんな朝早く起こしてしまって申し訳なかった。
彼女の睡眠を妨げないように静かに冷蔵庫を開けた。そこには確かにペットボトルに半分くらい残ったお茶があった。洗ったばかりのコップがシンクにあったのでそれを使った。冷蔵庫の扉にいくつかの写真や名刺、メモ書きがマグネットで張り付けてあった。
2月2日、香里園駅前19時待ち合わせ。2月7日、セミナー大阪本町駅チラシ配り。2月14日、バレンタイン、ヨシカズとデート。そのメモの下にはしーちゃんと彼氏のツーショット写真があった。しーちゃんの彼氏の写真は初めて見る。お茶を飲んでいた寿満子の眼はそこで釘付けになった。
その写真のしーちゃんの横でニヤニヤ笑っている男はどう見ても学だった。メモ書きに書いてあったヨシカズという文字を確認して、また写真を見た。やはり学にしか見えない。
お茶を一息で飲み干すとその写真をはぎとり、ベッドで眠っているしーちゃんを起こした。
「しーちゃん、これ、あなたの彼氏?」
「……」
まだ、はっきり起きていないのか、しーちゃんはすぐには答えなかった。
「この写真の人はしーちゃんの彼氏? ちゃんと答えてよ」
「いきなりなんなん? 彼氏に決まっとるやん。話はあと、ともかく眠る。昨日おそかったから眠いの」
しーちゃんは面倒そうに答えるとまた布団をかぶった。
「起きろ!」
しーちゃんの布団をはぎとった。
「寿満子、いったいなんよ。あんた、うざいわ」
しーちゃんはもう一度布団をかぶった。
その時、寿満子は決定的なものをしーちゃんの左腕に見つけた。そこにはドクターレオンのスマートウォッチがあった。「カタカムナ」資金の入金時に契約者に与えられる特別なものだと言っていた。学が寿満子に渡したあのカメレオンがいる時計だ。
血の気が引いた。寿満子はベッドサイドに立って静かに聞いた。
「あの男にいわれて、カタカムナ資金にしーちゃんもお金を出したの?」
「カタムカナ資金のことなんで寿満子が知ってんの?」
しーちゃんはベッドから起き上がった。
「誰に聞いた?」
「学に」
「学ってだれ」
「私の旦那。ずっと付き合って結婚した、私の旦那。この男」
冷蔵庫の扉から剥がしたツーショット写真をしーちゃんに突きつけた。
「これはヨシカズ。私の彼やん」
「間違いなく私の旦那の学だよ」
二人はしばらく沈黙した。嫌な時間が流れた。
「似たような顔の男いっぱいおるからな」
しーちゃんは面倒臭そうにそう言って、話を終わろうとした。ともかく眠いようだ。
床に落ちていたミンクの古いコートを拾い上げて寿満子は袖を通した。
「寒いからこのコート羽織っていい?あと少しお金を貸してくれない?」
「お金?そんなもん、あるわけないやん。何言うてんのん」
「一円もないから、コンビニにもいけない。頼むわ」
手を合わせてしーちゃんに頼んだ。
「コートはかまへん、嫌なオヤジからのプレゼントやし。返さんでもええよ。他のもある。でも、お金は貸せん。私やってお金無いから。」
しーちゃんはため息をついた。
「まあ半年前に15000円借りてたから、それは返しとくわ。あんたにあったら返そう思ってとっといたから。」
しーちゃんは財布からお金を数えて渡してくれた。
寿満子もため息をついた。半年前にしーちゃんもバイトと派遣を同時に解雇されて、家賃の支払いに困っていた。まだ、彼女より余裕があったのでお金を貸したのだ。
二人はお互い助け合って生きてきた。自分の恋人を学という別の人物だと寿満子が言っているのは、何かの勘違いだと思いなおしたようだ。
「あんた本当はなんでここに来たん? 何かあったん? 」
しーちゃんは尋ねた。
もう取り繕うことはできないと覚悟して寿満子はアパートで起こった一部始終を説明した。
学と一緒に居たところ、何者かに襲われたこと。彼に逃げろと言われて逃げてきたこと。そのまま勢いでずっと心にわだかまりとなっていた投資の話にも言及した。彼の勧めの投資話に同意し、70万円を振り込んだこと。寿満子もドクターレオンのスマートウォッチを持っていること。
同じ「カタムカナ」資金入金時にもらえるスマートウォッチを彼女も持っていることを早口で説明した。しーちゃんの左腕のスマートウォッチを指さし、寿満子も自分の腕のそれを彼女に見せた。
しーちゃんは気味悪いものを見るように、寿満子の腕と自分の腕の両方のスマートウォッチをじっと眺めた。一通り同じものであることを確かめてから、寿満子は聞いた。
「カタカムナ資金をうちの旦那は私にも勧め、しーちゃんからもお金を出させたの?」
しーちゃんはベッドに座りなおして、静かにその説明をきいていた。表情をこわばらせ、うちの旦那と寿満子が言った時には「うちの旦那と違うわ」と吐き捨てるように言った。
かなり怒っているようだ。話を聞きながらしーちゃんは自分のスマホを弄っていた。
「ヨシカズと一緒の写真や、あんたの旦那なんかやないわ」
どこかの温泉旅館でとったのか、二人は浴衣姿で柳の並木が並ぶ川沿いでポーズをとっていた。
寿満子も学と旅行にいったことがあるが、いつも神社回りばかりだった。温泉宿でゆっくりするような旅はしたことがない。学が温泉なんて場所に興味を示すとは思えなかったが、その写真の人物は間違いなく寿満子の配偶者の学に見えた。
「でも、それはうちの旦那の学だよ。まちがいない」
これ以上、しーちゃんを怒らせたくなかったが、一言だけ反論した。
「寿満子、あんたのスマホはまだアパートなんか?」
「財布とスマホもアパートに置いてきてしもた」
「そっか」
「スマホあったら写真みせるんやけど……」
「じゃ、私が全部、確認したるわ」
そういってしーちゃんは電話をかけた。
「ああ、ヨシカズ?今ここに佐々木寿満子って女が来てる。あんたの写真見て、ヨシカズのこと旦那の学やぁて言うてるけど、どうなってんの?」
しーちゃんは一気にまくし立てた。しばらく返答はなかった。
電話の向こうでガサガサっとたくさんの人のうごめく気配があった。そして、学とヨシカズのどちらでもない男の低い声が聞こえた。
「こちらは寝屋川警察です。オタク、どなたさん?」
「私は佐藤史都子です。その電話のヨシカズのカノジョです。はい。寝屋川です」
電話の相手の質問にしーちゃんは答えている。
「えっ。ヨシカズが怪我? 刺された?」
しーちゃんが寿満子を睨んだ。
「佐々木寿満子ならここにいます。ここの住所は……」
電話を切ったしーちゃんはもう眠そうには見えなかった。
「ヨシカズじゃなかった。別の男が出た。警察だって。佐々木寿満子にそこで待ってるように伝えろ、って言われた」
ヒッと寿満子は小さな悲鳴を上げた。
しーちゃんに彼女は襟元をつかまれ、強く引き寄せられた。しーちゃんは人が変わったような恐ろしい目で睨んでいた。
「すーちゃんあんたヨシカズ刺したん?警察がそう言うてたわ。救急車で運ばれたって」
寿満子は混乱した。しーちゃんが言っているヨシカズが学のことであれば、彼が誰かに刺されたというのか?
「違う!」
「あんたが犯人だって言ってた!」
「違う!」
「警察に捕まえてもらったらええわ。アンタがここにいることは警察におしえたからな。じき、捕まえにくるわ」
顔を近づけて憎々し気にしーちゃんは罵った。だが、すぐに我に返ったように身支度を整え始めた。
「私は今から病院にいく。アンタは自首しな」
靴下をはくため、しーちゃんはベッドに腰を下ろした。
「ヨシカズとか、刺したとか、私はしらない。違う!」
しーちゃんにもう一度釈明しようとしたが、取り合ってくれなかった。
「警察に捕まれ!自主しろ!」
寿満子は激高するしーちゃんから逃げるように部屋を出た。
しばらく走って毛皮のコートを着たままだったのに気づいたが、彼女の部屋に戻る訳にもいかない。ともかく逃げた。
突然の襲撃を受けた時、寿満子は学が殴られていたのを見た。足の骨くらいは折れていたかもしれない。ヒドイ暴行で怪我をしているのは間違いなかったが、男たちの手に刃物は無かった。彼女がベランダから逃走した後、学は刺されたのだろうか?
パトカーのサイレンの音が遠くで聞こえた。このままだと自分が犯人にされてしまう。警察に行くかどうかを迷った。
警察署が見えるところまで行った。警察署の前に数人の男たちが立っていた。全員私服だった。警察官でも刑事は制服を着ていない。あの男たちの前を通って警察署に入れば守ってもらえるだろうか。寿満子は学を刺したりしていないし、あの暴行事件の被害者の一人だ。でも、警察は寿満子が犯人だと言っている。
このままじゃ、犯人にされてしまう。警察署の近くでどうするか、考えあぐねていたら、集まっていた男の一人が寿満子に気づいた。
指先で仲間に、寿満子を指さして知らせた。全員がこちらに向かって駆け出した。反射的に彼女は反対側に逃げた。恐ろしい速さで男たちは彼女を追ってきた。だが、このあたりの地理には警察よりも彼女が詳しい。
この道の先に井戸水くみ上げのポンプ室がある。住民がクリーンデーの時に使う清掃用具置き場として利用されている。いつも鍵はかかっていない。路地に入り込んだ間隙をねらって彼女はポンプ室に飛び込んだ。ポンプ室は民家のブロック塀と一体化していて、住民でなければそこに入口がある事すら知らない。
男たちが走りすぎるのをしばらく待ってから彼女は警察署をさけ、裏道を通り、寿満子のアパートを見下ろせるマンションの8F通路に立った。アパートの周りにパトカーが2台とまっていて、寿満子の部屋の周りに人だかりができていた。警察が来たことは間違いなかった。
ヨシカズが刺されたとしーちゃんは言っていた。学とヨシカズは同一人物なのか?しーちゃんの電話を受けた相手は?寿満子の部屋に警察が来たのか?誰が通報したのだろう?様々な疑問が浮かんでは消えた。
しーちゃんの電話に出たのは警察だ。そして、寿満子は今、追われる立場だということを理解した。
自分は何かの罠に落ちたのだ。
ここにいてはいけない。この町にいてはいけない。一目散にその場を離れた。しーちゃんのコートの内ポケットにはサングラスが入っていた。サングラスをかけて道路脇に立ち、生まれて初めてヒッチハイクした。
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