悪魔
人目が無くなったのを見計らって、私は全力を出して路地裏を走り抜けた。
常人離れした魔族の脚力を、この皇都で発揮するのは危ないと思った。それでも、私は全力でスリの男を追いかける。
ただの義侠心ではない。何かむしゃくしゃした気持ちが、風を切る速度を上げさせる。
魔族の強い力で、人間の子どもを助ければ。
魔族の強い力で、人間の悪党をやっつければ。
私の行いが証明になってくれないだろうか。魔族が、神の正義に逆らった罪人の成れの果てなどではないという証明に。
そんな、人助けにしては不純な気持ちが、脚に余計な力を込めさせる。
半魔の私の全力疾走から逃げるのは、駿馬に追われるようなものである。
廃墟のそばで男が歩いているのがすぐに見つかった。私は壁を蹴って大きく跳躍し、油断している男に上空から飛びかかった。
ぐえ、と圧し潰されるような悲鳴をあげた男を、さらに押さえつけて動きを封じる。
男は古くてボロボロだが仕立てのいい服を着ていて、上着の内ポケットから金の鎖がはみ出ていた。
「ムッシュー、すまない。あの子は反省して私たちに財布を返してくれた。あなたもあの子に返さなければ」
そう断って、男から鎖を取り上げる。それは確かに小さなペンダントで、金細工で飾られた石がつり下がっている。装飾品にしては質素で慎ましい造りだった。
その欠片のような石には見覚えがあった。魔族の瞳のような、紅く仄暗い色の石。
これは――ルチア島でのみ採れる鉱石だ。ということは、このペンダントは、ルチア島からアジャール族を通して輸出された工芸品ということになる。
なるほど。地味な二束三文の品に見せかけて、価値の分かる相手に売れば高い値がつくということだ。亡き母親が貧しい孤児となるだろう子どもに遺したのも分かる。
ひょっとしたら、あの子の母はモルゼ王国の没落した貴族だったりしたのだろうか。親子の思いを想像すると少し切ない。
……ちょっと待て。それならば、このペンダントを盗んだ男も、価値が分かる人間ということか?
「そ、それ、それを返せ」
私の下で抵抗していた男がペンダントに腕を伸ばそうとするので、再び押さえつける。男はじたばた暴れて、昼間から酒に酔っぱらってでもいるのか、呂律の回っていない舌で何やら喚いた。
「おま、おまえ、その制服、リセ・ルージュか」
言い当てられて肝を冷やす。キャメル色の布地に紅い刺繍が施されたリセ・ルージュ学園の制服は皇都では有名だ。
逆恨みされて、学園の悪評を広められてはいけないと焦ったが、男の訴えは別のことだった。
「なら知らないだろ、それはな、呪われてんだ! 聞いて驚くなよ、なんせ悪魔が作った首飾りなんだからな!」
悪魔。
私は目を見開く。
「南の属州の化け物……あの魔族って連中だぜ、奴らが足りない脳みそ使って、こんなので小金稼いでやがったんだ。へへ、こんなナリだがな、俺は官吏さまだったんだ。あいつらの生みだす金はぜんぶ俺のモンだ。だからそれは俺のモンだ」
心臓の鼓動が速まる。
上手く息ができない。手先が冷たくなり、頭が割れるように強烈に痛い。
まさか。まさか。まさか。
「俺は官吏さまだったんだ……魔族どもを粛清する崇高な仕事……そこに住む悪魔の末裔どもが、〝ルチア島〟だとか呼んでるらしい、ちんけな隔離地域の島の……」
そこで男は、急に酔いが醒めたかのように、ふいに真顔になった。
凶暴さを宿して光るその眼に、なぜか、ひどく見覚えがある。
閉ざされていた記憶の扉がこじ開けられる音がする。
思い出してはいけない!!!
恐怖が身体を硬直させる。鼓膜を割くような怒号と罵声が耳によみがえった。
『死ね! 死ね! ここまでやっても死なねえか!』
拘束する力が弱まったのに気づいて、男は私を押し退けた。
ぺしゃんと座り込んだ私に、立ち上がった男の影が落ちる。逆光で全身が真っ黒だ。
顔が、見えない。
あの時もそうだった。あの時も、顔の見えない黒い何かをこうして見上げていた。
そして、その拳が、自分に向かって何度も何度も振り下ろされるのを見ていた。
拳? 違う、鉄の棒だったかもしれない。いや違う、ナイフだっただろうか?
分からない。思い出せない。思い出したくない。
ただ、このだみ声は、はっきり聞き覚えがある。
『この気持ち悪ィ化け物が!』
男が近付く。腕を伸ばして、ペンダントではなく私の胸倉を掴む。
そして力任せに引き寄せられた。顔と顔が近付く。
顔が、見える。
『悪魔が人間様の面してんじゃあねえええええ!!!』
「ぉおおまええルチア島の悪魔かぁあああああああああああああああああああ!!!」
ぐにゃりとありえないほど歪んだその顔は、とても人間のものとは思えなかった。
むしろそれは、
悪魔、
と言うべきものに近かった。
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