進路相談

 入学したばかりの時は、毎日が非日常だったというのに。

 ふいに、焦りが襲う時もある。


 お前は己の野望を忘れてしまったのか? こんなにのんびり過ごしていていいのか? と。現に、私より優秀な生徒だって、ここには山ほどいるではないか。


「何を言う。アルバ・ルチア―ナ、貴様はすべての教科において優秀だ。このまま順調にいけば、聖誕祭の休暇前の総合成績発表でも十位以内は確実だろう。奨学金は変わらず支給されるから安心したまえ」


 生徒指導のヤンセン神父はそう言って、あまり見る者を安心させない笑みを浮かべる。放課後、古代語の質問のために研究室まで来たが、いつの間にか学校生活の相談になっていた。


 そういう訳だから勉強に根を詰めすぎないように、と古代語のノートを突き返してくるヤンセン神父は、「面倒くさいから生徒の指導とか極力やりたくない」というのが本音な気がする。神父としても教師としても色々と問題のあるお人である。


「でも入学試験の時の首席は、ワンダだったんでしょう。友人として、私もうかうかしていられないと思わされますよ」

「勤勉で結構。だがまあ、半ば捕虜として育てられたとはいえ、相手は元王女だからな。西方大陸でも最高峰の教育を受けてきて、本人にも学問の素質があるとなれば、普通の人間は太刀打ちできん」


 それはそうだ。納得しつつ、私は焦りを無視できない。ワンダといいカミルといい、頭のいい友人に囲まれていると、私は自分が凡人であることを痛感させられる。


 私はルチア島の神童だが、外に出てみて分かってきた。神童は割とたくさんいるのだ。


「とはいえ彼女は出席日数が少なすぎるし、授業の課題も未提出だらけときた。試験の点数だけならともかく、総合成績は分からんぞ。で、なんだ、ワンダ・モルゼゴヴナを抜いて一位になりたいのか?」


 にやにやと顔を覗き込んでくるヤンセン神父は、本当に他人の争いごとが好きだ。聖典には「汝、争いを好むなかれ」と戒律があるはずだが、この神父は大丈夫なのだろうか。訝しみつつ私は答える。


「私には首席でこの学園を卒業しようという目標があるのです。皇都の名門学校では、首席卒業者が皇帝陛下に謁見する慣習があると聞きました。辺境の田舎島から出てきた一平民としては、チャンスがあるならば、ぜひその光栄を賜りたいものではありませんか!」

「ほう。貴様がそこまで皇帝に忠誠心のある人間とは思えんがね……」


 ヤンセン神父は研究室の机の書籍を片付け、湯気の立つコーヒーをカップに注ぐ。修道院の夜の業務などでは眠気覚ましにコーヒーを飲むらしいので、ヤンセン神父はもっぱらコーヒー党らしい。


 貴様もいるか? と尋ねられたが、つつましく遠慮した。……私には、まだカフェオレですら苦くて飲めない。


「私は探検家になりたいのです。世界中を旅して、その土地の風土や文化を記録して、世界地図を作りたいという野望があるのです。そんな大それたこと、平民一人では不可能でしょう? なので、皇帝陛下からの援助をお願いしようかと」

「それ自体が既に大それたことだ」


 愉快そうにヤンセン神父が肩を揺らす。神父はカップにありえない量の角砂糖を投入しており、私は思わず二度見したが、そんな反応に構わず彼は話を続ける。


「正確で価値のある世界地図を作るならば、求められるのは測量術どころではない。地理学、天文学、数学、歴史学、博物学、語学、文献を遡るためには古代語も関わる。探検の旅に耐えうる体力に、現地の政府や住民を味方につける政治の手腕も必要だろう。文化を記録するには音楽や美術、料理に至るまで多彩な知識と技術も」


 指折り数え上げてから、ヤンセン神父はぱっと両手を開いた。


「たいへん欲張りな野望だ。成績優秀な問題児にふさわしい野望だな。入学一週間で決闘騒ぎを起こすだけのことはある」


 そのことはもう言わないでくださいよ、と苦笑いする。あの騒動を起こしてから、ヤンセン神父には妙に気に入られている節がある。気のせいかもしれないが。


「それで言うと……ここの地理学の授業は、学園長が担当していることを知っているか?」

「学園長先生が? いえ、存じませんでした。入学式でもお会いしませんでしたし」


 リセ・ルージュ学園の現学園長は、西方大陸中の学校や大学に招聘されて各地を渡り歩いているか、もしくは勝手に押しかけているかで、非常に多忙なお方のようだ。


 そのせいで、生徒からはレアな人物扱いされて「学園長を見つけた日は三つの幸運がある」「学園長の影を踏んだら呪われる」などと適当な迷信が広まっている。その真偽の検証も含めて、ぜひいつか会ってみたい人物だ。


「まあ知らないはずだ。学園長はここ一年ほど西方大陸にはいないのだから」

「いない? 西方大陸にすらですか? ではどちらに?」

「新大陸のジャングルを探検している」


 ぽかん、と口を開けて固まってしまった。「その間抜け面が見たかった」と嬉しそうにヤンセン神父は手を叩いた。


 新大陸。

 二百五十年ほど前、ブランシェ帝国がまだ大公国だった時代。ひとりの航海士がとある国の女王の後ろ盾を得て未知の海域へ旅立った。そして発見された巨大な新天地が、西方大陸の国々が呼ぶところの「新大陸」である。


 東洋の国々ともまた違う、まったく未知な土地、未知な民族、未知な風土。広大な自然と先住民の守る秘境の領域は、いまだ探検し尽されてはいない。


「新大陸に到達した航海士は、異文化との接し方を知らなかった。探検に乗り出した勇敢さは称賛できるが、先住民との間に引き起こした摩擦とその遺恨は今も根深い」


 そう言って、ヤンセン神父はコーヒーに口をつける。そして、あれだけ砂糖を入れたのにまだ苦味があったのか、顔をしかめて追加の角砂糖を足した。


「よその土地にずかずか踏み込んでじろじろ見ていくのだ。自然は牙を剥き、住人は反感を向けてくる。探検家は己の無神経さに自覚的にならなければならない、と学園長はおっしゃっていた。この学園の生徒には、そういったことに気付ける繊細な感覚を育ててほしいとも」


 聞いていて、ふと思い出した。学園長不在の入学式で、それに近い内容の手紙が、祝辞として読み上げられていたのを覚えている。


「そんなことを好き勝手言い残して行ってしまわれた。われらが学園長はそんなお方だ。あの無限の行動力はどことなく聖エスペラールにも似ているな。仮にも学園長だというのに、学校経営を放って探検などしているのははなはだ無責任であるのだが」


 ヤンセン神父の説明にうなずく。まったくもってその通りだ。

 けれど――。


「貴様には素晴らしい師となるだろうよ。とんでもない風来坊だからいつ帰ってくるか知れないが、まあ、いつかは帰るだろう。お会いできる日を楽しみに待ちたまえ、アルバ・ルチア―ナ。貴様の野望の参考になるだろう」


 眼鏡の奥で、ヤンセン神父の細い目が笑った。


「それだけでも、この学校に来た甲斐はあるのではないかね?」


 夢と、憧れと、希望。

 ぐっと唇を引き結ぶ。その通りだ。


 ありがとうございました、と丁寧にお辞儀をして、私は研究室を出た。

 そして、人気のない研究棟の廊下を歩いているうちに、ノートを胸に抱いて小走りになった。廊下は走ってはいけないが、なんだかどこまでも駆け抜けたい気分だったのだ。


 ああ。外の世界に来てよかった。

 最近、毎日が楽しい。

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