書物は知の扉、図書館は知の砦
少なくとも、興味は持たれていると思っていた。
だって、私は魔族だ。ブランシュ帝国において、指定の居住区域から一歩でも勝手に外へ出れば処刑される身の上。そんな紅い目をした魔族と皇都の学園で遭遇したとあれば、右から左への大騒ぎになるのが普通である。
しかし、ワンダ王女は違った。
私の顔をしばらく見つめたのち、フッと視線を逸らすと、
「ではさようなら」
立ち尽くす私の横をすたすたと通り過ぎていった。
あまりに拍子抜けな反応に、私の方が呆然とした。慌てて彼女の背中を追いかける。灯りの無い夜の学園の敷地を、ワンダ王女は迷いなく歩いて行く。
彼女がまっすぐ向かう先に図書館があるのを見て、私は瞬きした。
リセ・ルージュ学園の図書館は私のお気に入りの場所だ。
円形の二階建てで、石造りの壁と太い柱が赤レンガのドームを支えている。堅牢かつ飾り気のない無骨な外観は、まさしく「知の砦」といった印象を与える。
その砦の扉の前に立ち、ワンダ王女は勝手知ったる動きでドアベルを鳴らした。そして「ワンダです」と短く声をかけると、閉館時間を過ぎたはずの図書館の扉の中にすっと消えていった。
どういうことだ? 私はワンダ王女をこれ以上追いかけるべきか迷ったが、そもそも私の本来の目的地もこの図書館である。ワンダ王女が図書館に入れるのなら、私も返却すべき本を返却させてほしい。
と、図書館に入る口実ができた私は、意を決して扉を開けた。
――初めてここを訪れる者は、この扉を開けた瞬間に驚くだろう。
一階から二階は開放的な吹き抜けになっており、ドームの天窓からは柔らかな日の光が差し込んで、朝、昼、夕と豊かに表情を変える。手すりや柱、天井には隅々まで細かな彫刻がほどこされ、床は緋色のビロード張り。
無骨な外観を裏切る華麗な内装は、これも聖エスペラールの「己の外側よりも内側を飾り立てよ」との箴言に基づくのだという。
フロアの中心では、円のカウンターに司書たる図書館長が鎮座する。そこから放射状に書見台が列を成し、その外側で本棚が縦にずらりと並ぶ。壁にもぎっしりと本が詰め込まれ、三百六十度が本だらけだ。
ここに収められる十万冊超の蔵書は、大学でもない
とはいえ、この「天国」も消灯後の夜は闇に支配される。暗いフロアの中心で、カウンターに置かれたランタンだけが仄かな光を放っている。
はたして、ワンダ王女はそこにいた。カウンターに座る図書館長の老婦人に本を差し出し、何か話しているようだった。
おそるおそる私が近付いていくと、二人がこちらを振り向いた。
「本の返却に来ました、マダム。こんな夜更けに申し訳ない」
隣のワンダ王女の様子を伺いながら、私は図書館長に声をかけた。図書館長は「ほっほっほ」と笑って私の本を受け取った。滑り込みセーフということか。
地獄の蔵書目録丸暗記コースを回避できて安堵する私の耳に、呟きが届いた。
「『モルゼ王国千年史』」
気付けば、私の肩越しに顔を覗かせたワンダ王女が、今しがた私が返却した本の表紙をじっと見つめていた。近い。急に詰められた距離にどぎまぎする。
ワンダ王女は、古びた装丁の『モルゼ王国千年史』を指差して、唐突に尋ねた。
「この本、ブランシュ帝国では禁書扱いになっているのでは?」
ぎくり。と、身体を固めたのがワンダ王女にも伝わったらしい。
弁解を頼もうと、図書館長に視線を送るも、老婦人は「ほっほっほ」と笑うだけで何も言ってくれない。観念して、私は弱弱しい声で説明した。
「いや、禁書なのはまったくその通りなのだが……。この図書館で保管されているのを発見して。古い本の上に禁書ということで、本来なら館外持ち出し禁止なのだが、マダムに無理を言って一週間の約束で貸し出していただいたのだ」
「そんなに読みたかった本なのですか?」
そう問うワンダ王女の声は相変わらず透明で、何の感情も感じ取れない。
その質問をどういった意図で口にしているのだろう。当のモルゼ王国最後の王女、ワンダ・モルゼゴヴナが。
考えても分からなかった。なので結局、正直に答えることにした。
「一週間前、君と池のほとりで会っただろう。それから、君が何者なのかを知って……君の出身の国を知りたいと思った。私はモルゼ王国のことを、何も詳しく知らなかったから」
ワンダ王女のターコイズブルーの瞳が、丸く鏡のように私を映している。
「知ってどうするのです?」
返答に困った。どうするつもりもない。なので、また正直に言った。
「知らなかったから、知りたかっただけだ」
碧い目が細められる。怪訝そうなその様子は、私の答えを信用していないのかもしれない。少し間があった後、ワンダ王女は私から視線をそらした。
「……まあ、どんな理由であれ、ここでのことは互いに他言無用にしましょう」
ワンダ王女はそう言って視線をカウンターに戻した。彼女がすらりとした手で持ち上げたのは、先ほど図書館長に返却していた彼女の本である。
そのタイトルを見て、私は瞠目した。
「禁書を借りたのは私も同じですから」
見慣れた表紙。それは私の愛読書である、『異端聖人伝』だった。
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